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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(5)変わる生活

 農業の変化について**さんは次のように話す。
 「この辺は、昭和30年代半ばころまで、みんな段々畑で麦やサツマイモを作っていました。昭和30年代半ばころからトマトを作るようになりました。トマトは木箱に入れて運ぶので重くてしんどかったのですが、値段が良く、現金収入が得られました。トマトは食用やケチャップの原料として高値が付いていたのです。この地域では『貿易』と言ってみんな必死で作って出荷していました。その後ぐらいからミカンが入ってきました。ミカンを作るようになってから、この辺の光景はいっぺんに変わってしまいました。それまでサツマイモや麦を作っていた畑がみんなミカン畑に変わりました。昭和39年(1964年)ころからミカンの苗木を植え、ミカンがとれるようになるまでに5、6年はかかりました。ミカンをやると一代は食いはぐれないと言ってミカンを作るようになったのですが、値段が良い時期は少ししかありませんでした。昭和60年代に入り生産調整が行われ、価格も安くなり、車の入らない段々畑は不便で、作っている人が年をとったこともあって、その時にみんな木を切ってやめてしまいました。今は荒れて雑木林になっています。」
 食生活の変化について**さん次のように話す。
 「正月にはたくさんのお餅(もち)をついていました。アワ、ヒエ、キビに少しだけ米を入れたお餅です。アワやヒエは畑の縁の方に植えていました。1軒で3俵(約180kg)から4俵(約240kg)つきます。年末のお餅つきの日には、親戚中の人がその家に集まって朝3時ごろから準備し、夕方までついていました。今日はどこそこの家のお餅つき、明日は別な親戚のお餅つきというように、親戚中でお互いに手伝って順番にお餅をついていました。年末の一番大きな行事でした。ついたお餅は大きな瓶に入れて水餅にしておきます。それをおおかた5月ころまで食べるのです。朝昼晩、主食として食べていました。子どものお弁当もお餅を持っていかせます。最後の方になると瓶(かめ)の水を替えてもにおいがお餅につきます。それを食べるのが嫌でした。そして、お餅が終わると今度はサツマイモばっかり食べていました。魚は浜に行けばイリコがいっぱい干してあるので、それを食べていました。肉は年に1回ぐらいしか食べられませんでした。お米を食べるようになるのは、昭和45年(1970年)から50年ころだったと思います。ミカンの栽培が順調にいきはじめてお金が入りだしてからです。昭和40年(1965年)ぐらいには、まだ半麦といって米と麦を半分半分に混ぜたものを食べていました。」
 また、**さん次のように話す。
 「今は鳥津には中学生以下の子どもが4人しかいませんが、昭和20年代から30年代には40人以上の小学生がいました。昭和22年(1947年)生まれが一番多かったです。戦争から帰ってきた若い人が結婚して子どもができます。それに私たちの親の世代も負けずに子どもをつくっていたため、子どもが多かったのです。親の世代からいうと子どもと孫が同級生になっていることもありました。私の家でも、私と一番下の妹は26歳離れています。私の子どもよりも年下です。一つの家で1年間に親子で合わせて3人子どもが出来ることもありました。家族がたくさんいたので、大人も子どもも食べるために必死で働いていました。
 お米は『ちんちまんま』といってお金を出さなければ食べることができませんでした。昭和30年代前半は子どもの弁当がいるときには、お釜に麦を入れた上に、お米を入れたアルミの弁当箱を置き、炊いていました。炊き上がってお米の上のほうに麦が混ざっていたら、それを除けて持たせていました。昭和37年(1962年)に大阪に行く時に、『大阪に行ったら一生懸命に働いて、おまえらに毎日ちんちまんま食べさすけんの。』と言ったら子どもらが喜んだことを憶えています。今こうやってみんなで話していると『ありがたいな。こんな日が来たのか。』と思います。食べるものも好きなものが食べられます。子どものころに、お祭りやお正月にご馳走(ちそう)があると、『何日でもお祭りやお正月があればよいのに。』と思っていました。あのころのことを考えるとこんな幸せな時代はありません。本当にありがたいと思います。」