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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)秋祭りの統合

 ア 保内町の秋祭り統合

 西宇和郡保内町(現八幡浜市)の秋祭りの簡素化について、昭和32年(1957年)に秋祭り統合の問題を詳細にレポートした手書き原稿が、保内町婦人会で作成されている(⑦)。保内町は、昭和30年(1955年)、磯津(いそつ)・川之石(かわのいし)・喜須来(きすき)・宮内(みやうち)の旧4町村が合併してできた町である。
 秋祭り統合問題の背景として、「会合の時など折にふれてお祭りの苦労が話し合われ、簡素化の必要を感じていた」という。その理由として、①祭りにお金がかかり後がこわい(経済的負担が重い)、②接待の気苦労がやりきれない(心理的負担が重い)、③主婦はお祭りらしい気分を味わうことができない、④それより日常生活をもっと合理化、充実したいなどが挙げられている。そして各地区の状況を見ると、せまい同一地区内でさえ祭日の違っている所があり、秋祭り統合の機運が盛り上がり始めた。
 実践内容としては、「町の合併を機会に秋祭を統合しては」との意見が保内町婦人会代議員会ではっきり取りあげられ、さらに各地区別座談会でも意見が出され、婦人会主導で統合問題を地域に提起したのである。この問題提起は地域社会に大きな波紋を呼び起こしたようで、祭り統合を実施できた地区と実施できなかった地区とに分かれたようである。
 そして祭り統合の結果、他地区との祭りの際の行き来が非常に少なくなって、ごく親しい親戚(しんせき)との交際ぐらいになった家が多かった。大勢の客を迎えて大騒ぎする宴会は姿を消したのである。
 ところが一方で、大きな問題にぶつかることになった。「婦人だけではどうすることもできない問題であるということを知った」、「婦人の提唱を快(こころよ)しとしない男子が相当あり、封建性の根強さを思った」、「商人、神官、老年者に反対の声が強かった」など、この問題に取り組む婦人会に対して相当強いプレッシャーがかけられたようである。宴会関連の消費に期待する商人、同日の祭りでは近隣の神社の祭典を手伝えない神官、従来どおりの祭りを望む保守的な高齢者など、変革に対する根強い抵抗にあったのであろう。
 そのためか、喜須来地区では秋祭り統合派と反対派の2派に分かれ、「隣は祭り、うちは畑仕事」というようにお祭りも別々にすることになってしまい、地域の一体感が失われてしまった。今後の展望としては、「やはり将来は統合にもって行くよう努力せねばと考えている」けれども、「ただ今のところでは暫(しばら)く(統合にも相当困難性がありその是非(ぜひ)についても一応検討する必要もあるので)統合はそのまま、簡素化運動に力を注ぎたい」として、祭りの統合ではなく簡素化に主眼を置くことにしている。このように、婦人会が提起した問題は、地域を2分するような激しい抵抗を呼び起こしたのである。

 イ 県下各地の秋祭り統合

 この秋祭り統合は、保内町だけの問題ではなく、県内各地で取り組まれた改善課題であった。昭和32年(1957年)に愛媛県連合婦人会が秋祭りの改善についての調査を全県で行っている(⑦)。それによると、秋祭りの統合について、調査への回答者の約6割が統合したと答えている(図表3-1-1参照)。また内容改善については、宴会の経費節約や晴着の新調をやめる、来客を制限したことなどを挙げる婦人会が多い。
 昭和30年(1955年)、川之江(かわのえ)市(現四国中央(しこくちゅうおう)市)では、新生活運動の一環として、川之江市連合婦人会が音頭を取って市内の秋祭りを統一しようとした。9月中の15日間、市内のどこかの地区が祭りを行っており、そのため客の出入りが多く出費がかさむ一方、製紙工場の生産が落ち、学童も落ち着いて勉強ができないなどの問題があった。
 市連合婦人会長は、「長い慣習を破るためいろいろ困難があると思いますが、新しい時代の流れに応じて改善しなければならないと思っています。(中略)老人たちはさびしい思いをされる方があるのではないかと思われますが、若い人の今後のために大乗的な立場から協力をお願いしたい。またこの際、祭り料理の改善も主婦たちに呼びかけ、見えをはることなく栄養本位のものとしたい。」と語っている(⑨)。市連合婦人会では地区別に婦人会が世論調査を行い、各地区とも9割が統合に賛成している。しかし神官の祭典に支障があるなどの理由で、昭和30年には統合されなかった。
 東宇和(ひがしわ)郡宇和(うわ)町多田(ただ)地区(現西予(せいよ)市)の婦人会と青年団は、昭和31年(1956年)の秋祭りに際し、期日の統一は来年に持ち越して、来客を「さしあたり親戚(しんせき)同士だけの祭にして、他の客をしない」ことを申し合わせた。「例年の祭といえば、女は1日中台所を走りまわり、酒よ酢(す)よゴボウよと、祭の渡御(とぎょ)さえ拝むことが不可能で、これでは女の祭にはならず、ただ男のみの祭を何百年か続けて来ているといえます。」と公民館主事は語っている。そして祭りの後、実態調査を婦人会60名に対して実施した(⑩)。
 まず「貴方(あなた)は今年の秋祭に客を招待しましたか」の問いに「した」34名(56.7%)、「しない」26名(43.3%)であった。次に「客の程度」としてどのような客が来たか問うた。「親戚」は1戸平均3名、「他人客」は1戸平均0.5名であったから、申し合せは守られているといえる。さらに「祭の簡素化は婦人よりもりあがっておりますか」と夫の協力度を問うた。「主人が協力してくれた」は41名(68.3%)、「主人が協力してくれなかった」は5名(8%)となっている。また「将来秋祭りを全町(旧6ヶ町村)統一することに」は、「賛成」が48名(80%)で、不賛成7名(12%)を大きく上回った。
 一方で、秋祭り簡素化に対する反対も根強いものがあった。「『招(よ)ぶまい行くまい他人客』の秋祭り簡素化ポスターは、一眼(ひとめ)見て冷たい感じを受けた。秋祭りは農村情緒豊かな一年中の楽しい行事である。内子町の如(ごと)き合併町村では、相互の交遊を温める機会ともいえる。日本経済も復興した今日、戦時中の様(よう)な指導でもあるまい。行きすぎた指導は個人生活への干渉ともいえるだろう。」という町民の声が喜多郡内子町の広報「館報うちこ」第11号(1958年)に掲載されている(⑤)。

図表3-1-1 秋祭りの統合について

図表3-1-1 秋祭りの統合について

伊方町町県郷土館所蔵文書から作成。