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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(4)結婚改善

 ア 魚成地区の結婚改善運動

 新生活運動の一環として、結婚改善の運動も行われた。それまで行われていた個人宅での華美な結婚式や豪勢な披露宴のあり方を見直し、簡素化を図ったのである。結婚改善運動について西予市城川(しろかわ)町魚成(うおなし)地区を取り上げ、**さん(昭和6年生まれ)に話を聞いた。
 「私は若いころ、魚成公民館に長く務めておりましたので、その当時の公民館日誌や『公民館報うおなし 縮刷版』(魚成公民館、1993年)などからお話しましょう。
 魚成公民館でまず取り組んだことは、公民館の備品として結婚衣装を購入し、当事者に安く貸出しすることでした。当時、魚成での結婚式は、隣町の野村町から美容師さんを雇い、着付けをしてもらっていましたので、高額の費用がかかりました。その費用を少なくすることが何よりも求められていたのです。その要望に応えて公民館は結婚衣装を購入し、昭和27年(1952年)12月2日に『結婚衣装使用規定』を制定しました。そして翌28年10月5日に結婚衣装の第1回貸し出し、同年10月6日に第2回貸し出し、10月27日に第3回貸し出しを行っています。公民館にある結婚衣装をみんなで次々に利用しておりました。
 魚成公民館報第34号(昭和33年〔1958年〕4月15日発行)に、衣装貸し出しの統計があります。昭和28年度は14回、昭和29年度は18回、昭和30年度は40回、昭和31年度は16回、昭和32年度は23回となっていて、5年間で100回を超える利用がありました。衣装は2着目を購入したほか、結婚式用盃(さかずき)・銚子(ちょうし)一式を購入し、貸出しを行っていました。
 そのうち、式も個人宅ではなくて公民館でやろうということになり、魚成公民館結婚式第1号として、昭和29年(1954年)12月19日に**さんと**さんの結婚式を行いました。約90名が参列したと記録されています。**さんは村長の息子さんでしたので、ぜひとも先陣を切るようお願いしたのです。                   
 魚成公民館報第11号(昭和31年5月1日発行)には、『こんなにしたらどうでしょう 公民館利用の結婚式案』と題した、土居清一館長執筆の記事があります。
 これは、『結婚式がだんだん派手になって困る、何とかしなければならないと誰もが言うのですが、いざ実行となると誰もやり手がない。今までも何回となく申し合せや規約が作られたが、ほとんど空文に帰している。公民館で何とかせよと言うけれど、実行のできない規約なら作らない方がよいと思う。しかし中には公民館で挙式したい人もあるらしいので、その基準案を作って見ました。誰か勇気をふるって手始めにやってください。』と呼びかけ、最大限50人の客に対して経費1万円の予算を想定したものです。
 式は、出合い結婚(嫁迎(むか)い・嫁送りの廃止)とし、準備は全部公民館で行うようにし手伝いに婿方から3人出してもらう。服装は、新郎は背広または紋付(新調しないこと)で、白花のモールを胸につける。新婦は公民館の結婚衣装か普通の晴着に紅花のモールをつけ、洋髪洋装も可とする。公民館衣装は料金半額とする。このような条件をつけ、式次第や披露宴次第は次のとおりとしていました。
 経費は、会場費1,000円(木炭、電灯、その他)、男蝶(おちょう)女蝶(めちょう)祝儀(しゅうぎ)1人100円ずつとしました。「男蝶女蝶」とは、三々九度の契(ちぎ)りの盃(さかづき)のお酌(しゃく)をする役目の小学校入学前後の男女の子どものことです。普通は男性側の親戚(しんせき)か近所の子どもを選んでおりました。その時のお銚子(ちょうし)に、蝶(ちょう)の折り紙が飾ってありました。このほか、肴(さかな)費1人前として、肴200円の折詰と酒100円瓶詰(びんづめ)の計300円でした。祝儀(しゅうぎ)についても規定をつくり、来客祝儀は100円程としていました。
 備考として、①経費は婿(むこ)方負担のこと、②両家共に自宅宴会は行わぬこと、③子どもの参加はなるべく少数にとどめるが参加のときは折代(おりだい)必要、④式はなるべく昼間に終ること、⑤紅白モールその他用具は公民館にて用意すること、⑥経費は前納のことと定めていました。 
 昭和30年(1955年)1月11日には、公民館では結婚衣装着付講習会を開きました。講師は宇都宮フジ子さんで、約40名が参加しております。同年12月14日には、公民館今田(いまで)分館にて結婚改善を話合う青年と婦人の座談会を開催しました。この会には当時の土居清一公民館長と私が出席しており、約50名の参加がありました。
 昭和31年(1956年)2月13日には、魚成公民館で結婚改善について青年団と婦人会の会が持たれ、婦人40名と青年30名が参加しました。魚成公民館報第9号(昭和31年3月1日発行)に『結婚改善については両者ともその必要性を認めながら、考え方、方法についてそれぞれの意見があり、一般に青年層は婦人層に比較して熱意が乏しく、形の上の改善よりも結婚問題に対する考え方などを問題とし、婦人層は積極的で結論を急ぎ形のうえからの改善を主張した傾向があり、結婚当事者による改善推進委員会的なものを作り進めていくこと、たびたびこの種話合いを行うことなどを申合せた。』と記事があります。
 昭和33年(1958年)4月26日には、男女10名ほどで結婚改善グループを結成しておりますし、翌34年(1959年)12月3日には結婚改善のための研究会を結婚予定者など7名で結成しております。」

 イ 公民館結婚式の実際

 昭和33年(1958年)、東宇和郡宇和町(現西予市)中川(なかがわ)地区で初めて公民館結婚式が行われた際の、新郎の母親の感想文が宇和町役場の「広報宇和」第54号に掲載されている(⑩)。

  「私の子どもはこの間まで青年団に入って居(お)り、皆と共に結婚改善を叫んで来た者です。(中略)先だっても私の村で
 嫁さんに行かれたのですが、そのお母さんが話されたことに『私の方では簡単にして欲しいと言いましたが、先方では長男だ
 からやはり今まで通(どお)りにして戴きたいとのことで仕方が無いのよ』と話されました。私はそうですかと言っただけでし
 た。しかしこれが大事な点だと思います。郡全体が一丸となって実行に移さなければ中川だけでは出来(でき)ないと思いま
 す。
  初めてなのでうまい具合に行けば良いがと心配しました。式は出合(であい)祝言(しゅうげん)と言うことでしたが、先方に
 来てもらった方が良いと言われますので、仲人(なこうど)と子どもとだけ行きました。(中略)全員三時に公民館へ集合しま
 した。会場へ上り思いの外(ほか)立派なのにびっくり致しました。正面には金屏風、横には松竹の生花、真中にはどこから
 見ても美しく見えるよう盛花が生けられ、四方は全部椅子、机の上は純白の布が掛けられ、見るからに潔く美しく飾られてあ
 りました。私は館長さん主事さんの温かい心づかいに感謝致しました。大阪の叔父もあれ程にするにはなかなかない、よくも
 あの様(よう)に気を使って立派にしてあったと祖母にも話され、喜んで居(お)られました。
  三三九度の盃も終り、次に誓詞を読みました。その声は厳粛な会場の隅々までも或(あるい)は強く又(また)弱く静かに流れ
 て行きました。私は何時(いつ)の間にか目頭が熱くなり涙の落ちるのを感じながら皆の前で恥かしい、此(こ)の喜びの日にと
 思えば思う程、涙は後から後からと、ハンカチを出して拭(ふ)くわけにもいかず、そっと手でおさえておりました。読み終る
 とポケットから印を出し嫁も又(また)自分で印をしました。その時ようやく頭を上げて見ることが出来(でき)たのでした。
  親戚(しんせき)一同は一足先に失礼して帰宅、茶菓子でみんなと座談して後、先方は五時に帰られました。私は嫁と近所廻
 (まわ)りを済まし、夕飯後2人はその夜の八時の汽車にて九州旅行の途(と)につきました。(中略)公民館にして戴きました
 お蔭(かげ)で家では何一つしませんでした。内(うち)の者も全部折箱にしましたから、あれを家でしたらどんなに忙しかった
 か知れません。公民館結婚式がこれに終ること無く後に続く人があります様(よう)願っております。
  行く末に 幸(さち)多かれと 祈りつつ 嬉(うれ)し涙が ほほを伝わる」

 ウ 東宇和郡連合婦人会の結婚改善要綱

 昭和30年(1955年)ごろ、東宇和連合婦人会が作成した結婚改善要綱がある(⑦)。その趣旨は結婚について、封建性に根ざす旧来の因習と虚栄を打破し過重な冗費(じょうひ)を節約して、明るい新生活の建設にふさわしい、合理的かつ厳粛な結婚の行われることを念願したもので、次のような実践を求めている。
 まず、第1に「両性の意志を基調とし両親の同意を求めること。」とあって、結婚にあたって両親の同意を求めることが必要とされていた。しかし「両性の意志を基調とし」とあるように、親同士の合意だけで結婚を認めてはいない点にも注意したい。第2に「双方に健康診断書を交換すること。」とあって、病気などがあるかないかを証明することになった。第3に「結納は全廃し婚約の徴(しるし)として相互に記念品を贈ること。」として、結納全廃を打ち出している。第4の持参品の規定では、調度品は当事者双方の合議で最少限度にすること、式服は新調しないこと、洋服を主とし和服は最少限にとどめ服装の簡素化に留意すること、外出着よりも平素着(労働着)に重点をおくことなどが規定され、経済的な浪費を戒めていた。
 結婚式については、出合い結婚式とすることを規定している。それまでの結婚式は、婿方の者が嫁の家へ行き(嫁迎い)、嫁を婿の家まで連れていく(嫁送り)の行列をして婿の家で婚礼を行った。これをやめ、婿・嫁双方の家から神社や公民館へ出向く「出合い結婚式」を行うよう求めている。また、式場は原則として神社、公民館を使用すること、服装について新郎は自由とし、新婦は公民館備え付けの礼服か、平服に所定の徽章(きしょう)をつけること、結髪(ゆいがみ)はなるべく洋髪とし輪帽子(わぼうし)は廃止すること、式終了後直ちに結婚届を提出することなどを規定している。
 披露宴についても細かな規定がある。まず宴席の鉢盛(はちもり)を廃止し、会席とするかあるいは折詰(おりづめ)とし、1人あたり300円以内とすること、酒は1人あたり2合〔3.6㎗〕とし、お土産(みやげ)物は一切廃止すること、招待者は近親、近隣及び友人代表の範囲とし、押(おし)かけ客(喜び客)は一切禁止すること、招待者の祝儀は200円以内とすることなどが記されている。豪勢な料理をやめて、簡素化を旨(むね)としている。西予市城川町魚成の**さんによれば、公民館で式や披露宴をした後、新郎新婦が帰宅するとそこでまた宴会が始まることが多く、二重の宴会になるのではないかという意見もあったという。婦人会の規定で自宅宴会は禁止されていたが、守られなかった。
 その他の規定として、「衣装見せを絶対廃止すること。」とある。西予市城川町魚成の**さん(昭和8年生まれ)と**さん(昭和12年生まれ)によれば、「衣装見せ」とは、タンスの引き出しを全部開けて収納されている服を見せることであるが、魚成地区ではしていなかったという。また「障子のぞき及び祝儀石(しゅうぎいし)持込を廃止すること。」とある。「障子のぞき」とは、自宅での結婚式の最中に、子どもが障子に穴をあけて式の模様(三々九度など)や花嫁の姿を見ようとすることである。祝儀石は、村の同輩連中が仲間の結婚を祝って大人一抱えもあるような大きい石を2つ運んで来て、新婚家庭の玄関先に持ち込むのである。これは南予一帯で広く見られる風習で、石打ちとも呼ばれる。これは、石になるまで(=死ぬまで)その家にいるようにとか、どっしり落ち着くようにとか、この岩のようにいつまでも離れないようにとかいうような意味合いが込められているとされる(⑪)。
 同じころ、同じ郡内でも、宇和海に面した東宇和明浜(あけはま)町(現西予市)の狩江(かりえ)地区では、狩江公民館が「結婚儀礼書」を制定したという(⑦)。同じ郡内ではあるが、東宇和連合婦人会が作成した結婚改善要綱とは異なる規定(申合せ)が実施されていた。結婚改善には画一的なルールはなく、地域ごとの伝統や習慣、経済事情などによって、簡素化の程度も違いが出てくることになる。

 エ 結婚改善に対する若者の意識

 南宇和郡一本松(いっぽんまつ)村(現愛南町)の「一本松公民館報」第25・26号には、昭和30年(1955年)、結婚についてのアンケート調査の結果が掲載されている(④)。調査は、一本松青年学級男子受講生20名と各地区の女子青年20名および結婚適齢の子を持つ婦人26名に対して無記名で行ったものである。
 それによると、「あなたは結婚の場合に式服を新調しますか。」という問いに、「新調する」0%、「借りる」55%、「分からない」45%となっている。改善運動は「借りる」ことを勧めるが、半数程度である。「分からないの多いことは、男子が将来のために洋服を作るかも分からないと言うことであると思われる。」とコメントされている。「あなたは結婚の場合に結納金をどう思いますか。」という問いに対して「多い方がよい」20%、「少ない方がよい」30%、「分からない」50%となっている。改善運動では結納金の全廃を掲げる地域もあるが、そういう意識の人は少数派である。「あなたが結婚の場合に村の結婚改善規約をどのように考えますか。」には、「違反はいけない」45%、「違反しても仕方ない」25%、「分からない」30%、「違反してもかまわない」0%となっている。このように、改善規約を守ろうという意見は多数派ではなかった。

 オ 取り組みの見直し

 以上述べてきたように、結婚改善のスローガンや要綱はあったが、あまり実行されなかったようである。昭和30年(1955年)10月、温泉(おんせん)郡連合婦人会では、なぜ結婚改善が実行されないのか、結婚改善はどうあるべきかについて話し合いをしている(⑫)。なぜ結婚改善規約が守られないのかという問いに、助言者として出席していた愛媛大学の宮本七郎教授は「従来の規約といったものは、ほとんど酒二合(3.6㎗)、料理200円以内、結納1万円…と実に細かく決められていますが、これですと、めでたやめでたの結婚式がひっそり、しめやかなまるで葬式めいてくると敬遠される。」と指摘する。
 また、結婚改善の成果が上がらないのは「婦人会などで問題にするばかりで、いずれ当事者になる女子青年団では一向ふり向かれないばかりか、〝嫁ぐ時に親からもらわねばもうもらえなくなる〟と被害者めいた考えさえ持っている。どうこの運動を持っていくのがよろしいでしょうか。」という婦人会側からの問いに、宮本教授は「結婚とは人間の結びつきであって物をやったり、もらったりすることが主眼ではないのですが、結婚改善とは金を節約することにちがいありませんが、それだけではない、むしろ金の使い方の改善だと思います。(中略)調度品をこれ見よがしに持っていかすという方法よりむしろ、現金を持たせ、娘の明日からの生活にふさわしく、必要な物を夫と共に選ばし、買わしていくといった方法が実質的な金の使い方でしょう。」と答えている。
 この説明を聞いて婦人会長らは、結婚調度品をこれ見よがしに近所の人に展示したり、また物見高に見に行ったりして虚栄心をあおる悪習を撤廃しようと「婚礼調度品は見せますまい、見ますまい」と決議し、また嫁にやる方よりもらう方が調度品に対する虚栄心を捨てなければ、やる方としては合理化したくてもできなくなる場合があるから注意しようと話し合ったという。
 また、越智(おち)郡関前(せきぜん)村(現今治市)の関前村婦人会長は、昭和33年(1958年)、愛媛県連合婦人会の機関紙「えひめの婦人」18号で「結婚改善のなやみ」と題して次のように述べている。

   「結婚改善は悩みの種である。婦人会がこの運動に乗り出したのは七年も前のことで、当時たびたび会合を重ねた挙句
  (あげく)申し合わせ事項を定めた。会合の席上では誰1人の反対者もなく散会するが、さていっこうに実行されない。
  (中略)いまだに成功にはほど遠い現状である。(中略)
   調度品の簡素化について。従来は質素、倹約を趣旨として呼びかけて来たが、あまり立ち入ってすすめることはかえって
  効果がない。むしろそれが幾分高価な電機器具類であっても、我が子の新生活を合理化し、倖(しあわ)せにする必需品であ
  れば必ずしもぜい沢(たく)とは限らない。
   荷飾り廃止について。人間関係の割合淡々とした都会ならともかく、一反の着物も互いに見せ合う程の人情こまやかな農
  村において、始めから荷物を『見るな、見せるな』と言うことを押しつけたのは、かえって無理だったのではないかと反
  省させられる。(中略)荷物を見た後の悪意的な批評と、それをおそれる親の虚栄心などを一掃せんがための荷飾り廃止で
  あって、要は荷物を見る人、見せる人の心構えの問題ではあるまいか。
   こうして考えられることは、改善運動を阻(はば)む一番大きな原因は、農村婦人の人間性の低さと言うことにあると思
  う。第2の原因として、私はいつのころからか、申し合せ事項や規約を定めて半強制的におしつけようとするすすめ方に深
  い疑問を抱くようになった。我が子の半生をかけた親の労苦がこの一瞬にして報いられるかとも思われる晴れの祝典であっ
  てみれば、祭りや節句を改善するのとは異なり、あまり個人の家庭に立ち入って干渉することはかえって逆効果を生む場合
  がある。」

 カ 結婚改善は内面の改善

 結婚改善については、結婚する当事者の内面意識を問題にする意見もあった。南宇和郡一本松村(現愛南町)の「一本松公民館報」第46号には、昭和36年(1961年)、青年団の研究集会に招かれた女性が次のような一文を発表している(④)。

   「これまでいろんな所で叫ばれてきたいわゆる結婚改善運動など、私はあまり好きでない。それは外見的なことばかりを
  どうのこうのと言って、本質的な内面的なものがおろそかにされがちである。
   結婚はプライベートな行事なのだ。村とか県とかが結婚の費用のこと、形式のことなどに、余計な口出しをしなくても、
  理想のものに早くなりたいものである。結婚式の方法は各人の自由でいいことではあるが、しかし、結婚式の花嫁の衣装や
  髪型が、今日でも昔と少しも変らず、文金高島田(ぶんきんたかしまだ)に振袖(ふりそで)というのは、どういうものだろう
  か。
   今日では私たちの生活様式も服装も、昔とはずいぶん変っている。若い娘さん連は、マンボスタイル(裾を極端に細くし
  たパンツをはくこと)も多い。それだのに花嫁になる日だけ唐突に、古い日本の伝統とか何とか、理屈に合ったようなこと
  を言いたてて、中国あたりから輸入した髪の毛でこしらえたカツラを頭にのせて平気でいるのは、一体どういう気なのだろ
  うか。あの見るからに重そうな、仰々しい島田のカツラを頭にのせて、窮屈そうにしているのは、どうも妙な気がする。
   新しい時代に生きる若い人たちが、そのことを少しも不思議がらないのは、私には不思議な気がするし、どうもがまんで
  きないことである。」

 結婚改善運動は、新生活運動の一分野として取り組まれ、自宅での盛大な式と宴会をやめて公民館での簡素な式と披露宴の実施や貸衣装の利用など、経費節約を主眼として取り組まれ、それぞれの地域ごとに違った内容の規定が作られた。しかし、細かな規定を設けて申し合わせても、その趣旨に従って実行する人は多くはなかった。そのため、運動団体の側でも運動の進め方やあり方に疑問を持つようになった。それは、やはり結婚が個人的なことであり、公的な規制がそぐわなかったからである。一方、結婚当事者の結婚に対するステレオタイプな考え方を批判し、本質や内面を重視することを求める意見もあった。

結婚式次第

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