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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)医は触れ合い

 「昭和32年(1957年)に有枝(ありえだ)(当時は美川村有枝、現久万高原町)に引っ越しました。河口(こうぐち)という所に、吉村源蔵先生が開業されていましたが亡くなり、医者がいなくなったのです。村内の仕七川(しながわ)に私の先輩にあたる女医がいましたが、美川村は私の出身地でありましたので、求めに応じて帰郷したのです。私の祖父も医者で、上黒岩で開業していましたし、曽祖父は畑野川(はたのかわ)で開業していたそうです。
 久主から帰ってきて、今のこの地(河口(こうぐち))で開業しました。校医の仕事や予防注射、健康診断など村内を巡回して村民のために働きました。『家を建てたらどうぞな。』と言ってくれる人がおり、それでこの医院を建てました。患者が入院できるよう設備を整えました。重油をたいて病室を暖める暖房設備を整えたのは、この近辺ではここが最初でした。しかし私自身が心臓病で入院してしまいました。
 その後健康を取り戻し、医院を新築して経済的負担が大きいことから、面河(おもご)村診療所の担当医(所長)としても勤務するようになりました。『美川には3人先生がいるから、面河を助けてくれんか。』という誘いがありましたので。面河村へは昭和47年(1972年)1月から10年1か月の間通いました。木曜日の午後と日曜日は美川村で診療を行いましたので、休日がありませんでした。
 土曜日に面河村での診療が終わるとこちらへ帰って、そのまま松山市内に往診していた時期もありました。昭和50年(1975年)ごろのことです。往復は医院の事務長が運転する自動車でした。松山駅周辺から石手寺あたりまで、長い間往診していました。自分では難儀しているのに、市内の病院で検査して異常がないと言われて診療してもらえない人たちに、私が『行きましょう。』と言って往診していたのです。口コミで広がり、5、6人もの人を往診しておりました。遠隔地から往診したため、医師会からお呼びがかかったこともありました。
 平成13年(2001年)に医療功労賞(読売新聞社主催)をいただき、皇居で天皇陛下にお目にかかる光栄に浴しました。私は、『医は触れ合い』を信条にして長年やってきました。医者というのは、ただ本を読んで機械をみて、それだけで判断する、というものではないと思うのです。患者それぞれに違った感情を持っているし、生活もみんな別々なのです。医者はそういうところに目を配り、患者が診察室に入ってきた瞬間の顔色、動作から判断しなければならないと思うのです。それが、今の先生方はデータだけをみて、患者さんの顔を見ていないのではないでしょうか。患者さんのなかにはストレス解消のために来ている方も多いのです。体を養うのと等しく、心を養うことが必要です。それを『医は触れ合い』という言葉で申し上げました。」