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愛媛学のすすめ

精神生活と生活文化

 今申し上げましたのは、もっぱら目に見える事例を申し上げたわけですけれども、私たちの精神生活を考えてみても、明らかに生活文化というのはございます。
 例えばの話ですけれども、高校から大学、小学校からずっとそうなんですけれども、高等教育を受けるようになりますと、人間だんだん生意気になってまいりまして、人の本を読んで、もっぱらそれを引用したりなんかして、自分の知識が太っていくことを喜びとする。学者というのは、それが職業でございますから、そういうことをやっております。カントがこう言ったとか、ヘーゲルはこう論じたとか。あるいは最近ですとレヴィ=ストロースの説によるとこうだとか、いったようなことを、学術的に、私どもは精神生活の中で分析をしたり、知識を蓄積したりします。
 同時に、学校教育とは全く別な所で、これは誰が作ったか分からないようなことわざの世界とか、あるいは民話の世界。民話につきましては、もし民俗学に興味がおありの方がいらっしゃるとするならば、例えば今日は岩手大学の先生もお見えになっておりますけれども、岩手県の遠野という所に、柳田国男という民俗学者が、正確に言うと本人がとったわけではなくて、佐々木喜善という人の聞き書きを柳田さんがまとめただけなんですけれども、遠野物語という名作でございます。そこには、四国の方はあまりおなじみではないかもしれませんけれども、座敷わらしの話だの、山姥(やまんば)の話だの、いっぱい出てまいります。
 愛媛にも民話がたくさんあるはずです。
 樵(きこり)が山の中に入っていったならば、そこでこれこれの妖怪(ようかい)にあったというような話は、学校教育の中で教えられたわけではない。家の、家庭生活の中で、おじいさんおばあさんから、その話を聞かされて、しかもそれは文字にもなっておりません。口から口へと伝えられ、世代から世代へと伝えられてきた民話の世界というのは、職業的な作家の仕事ではありません。アマチュアの仕事です。
 アマチュアの仕事で、結構それはまた潤色したり、変形したりしながら話をどんどん面白く作り上げていく。そういう知恵というのを、普通の生活人は持っていました。
 目に見える物としましては、先程から何度も申し上げた民具とか、普段の食事とか、衣食住さまざまな領域にわたって、目に見える文化財を持っておりますけれども、精神生活の中でも、今申し上げたことわざ、民話といったようなものは、明らかに生活文化の領域に属するのです。
 そんなわけでありますから、ここからちょっとお役所的な言い方になりますけれども、現在文化庁には、文化政策推進会議というのがございます。4年ほど前に出発したんですが、文化庁というお役所は、これまで発足の時からずっとそうでございますが、大体文化財保護と、それから文化勲章によって代表されるようなプロの文化、職業的文化人といいますか、人から言えばそうですが、文化的成果について、それを表彰したり、援助したりするというのが、その主な役目だったわけです。その文化政策推進会議を進めていくにあたりまして、どうもそうした古文化財とか、あるいはかっこつきの「文化」だけでは、日本の文化問題、あるいは文化政策を立てることはできないというので、その中に生活文化・地域文化小委員会というのを作りました。私自身が、実はその小委員会の委員長を務めておりますので、そういことがここで出てきたわけでございます。
 これが日本の文化政策にとっても、大変望ましいことだと思うんです。ノーベル賞、文化勲章だけが文化なのではありません。むしろ、先程から何度も申し上げておりますような、口伝えで時代を超えて語り継がれてきたような言い伝え、伝承のようなもの、あるいは日常の器。
 たまたまここは砥部と松山の境界線にあるように伺っておりますけれども、砥部の焼き物というのは、私自身も、ごく本当にアマチュア的な自分自身の経験と観察によるのでございますけれども、これは有田とか、あるいは鍋島とかいったような、あるいは京都の京焼のようなものとはちょっと系統が違うようでございます。
 九谷とか有田とかいうことになりますと、有田も、私は何度か足を運びましたけれども、非常にこれは繊細なプロの芸術家による作品でございます。壷(つぼ)一つとって見ましても、実に細やかな絵づけがされておりますし、その1枚のお皿、一つの杯をとって見ましても、肉は大変薄くて、絢爛豪華な物もしばしばあります。柿衛右門のお皿なんていうことになりますと、1枚買うのに何十万円。それでもきかないぐらいの芸術品でございます。
 それに対して、砥部焼というのは、これは本当に私の素人の暴論をお許しいただけるならば、これは日常の器です。肉はとても厚いですし、手にとってみれば重い。しかし、その造型感覚と色彩感覚から言いますと、パッと見ただけで、これは砥部だということが分かる。そういう素晴らしい歴史を持っておられるわけですけれども、これは日常の器なのだと、私は思います。
 私の家でも砥部焼は日常の器として使っております。別段、戸棚の中に入れておく芸術品ではありません。毎日使える器という物の方が、ひょっとすると、本来博物館や美術館に置かれているような、そういう高価な芸術品としてのお皿よりも大事なのかも知れない。
 話は前後いたしますけれども、こうした日常の器について、その大事さを注目したのが柳宗悦さんをはじめとする、いわゆる民芸運動と呼ばれる人々でございます。砥部焼も、そうした私は民芸の一つではないかと思っております。それはその後、日本の陶芸の歴史の中で、こういった日常の器としての陶磁器という物にもう一度着目しようという、素晴らしい運動を次々に生んでいくわけでございます。織物で申しますと、片や西陣があり、それに対して日常の物として絣(かすり)がある。染め物としては、一方に芸術品としての加賀友禅、京友禅があるけれども、同時に他方には、全くアマチュアの知恵として出来上がった、藍染めのようなものがある。
 こういうふうに考えてまいりますと、プロの文化、そしてアマチュアの文化。あるいは芸術家が作った文化と、それから生活者がその芸術感覚、造型感覚を生かしながら、アマチュアとして作り上げた文化。こういう分け方ができるのではないかと思います。
 生活文化というのは、もしもそういう性質のものであるとするならば、これに焦点を当てましょうというので、先程申し上げました生活文化・地域文化小委員会というのができて、今我々が作業をしているわけでございます。
 こういう作業をしておりますうちに、だんだんわかってきましたことは、生活文化というようなものについては、行政は手を出すべきではないという一つの暫定的結論でございます。なぜならば、アマチュアリズムによって出来上がった、こうした創作活動というのは、あくまでもそれぞれの個人ないし生活者の自発的な創作意欲によって形成されてきたものでありますから、これを行政の側で指導したり表彰したりというのは、むしろおかしいのではないか。生活文化というのは、生きているということそのものなのですから、そのことについて価値評価をお役所が下すというのは、せん越きわまる話なので、生活文化については、それぞれの地域の実情などを研究することは大いに結構だけれども、それについて行政の側がとやかく評価をすること、ましてや援助をすることはやめた方がいいのではないかなというのが、我々の今の暫定的結論でございます。
 我々の普通の生活というのは、きわめて平凡なものだけれども、その中に素晴らしい発明心というものもあるわけでございます。その自由な発明心、そして何かを知ろうとする意欲。そういったものが大事にされた時に、生活文化は表に出てくるのではないかと思うのです。