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愛媛学のすすめ

六十の手習いの精神で

 生活文化の担い手である我々が心掛けなければならないことの第一は、今申し上げたような、六十の手習い、三つ子の魂百までもということわざによって代表されるような、絶え間のない学習意欲ということだと思います。これが失われた時、先程私は「精神が死んだ」という表現をいたしましたけれども、人間は高慢になります。俺は何でも知っているよという、擬似的な自信を持った途端に、その人間ははたから見れば高慢な人間になりますし、精神はだんだんむしばまれていくというふうに考えます。
 確かに年をとってくればくるほど、経験の蓄積はありますし、本も読んでおりますから、昨日より今日の方が多少は勉強したというふうにも思いますが、同時に俺は何でも知っているというのは、一番人間にとって恐ろしいことです。知らないことの方が多いと自覚した上で、毎日何か自分の好きなことを学んでいる。学んでみる機会を与えてくれる場を提供するのが、実は教育ということなんです。私は教育という言葉を、このごろ全然使わないようにしておりまして、むしろ学習という言葉を使うことの方が適切だと思うのです。
 学習意欲というのは、誰にもあるはずなのであります。その学習の対象はいろいろありましょう。ピアノを学習したい人もいるでしょうし、絵を学習したい人もいるでしょう。フランス語を勉強したい人もいるでしょうし、俳句を勉強したい人もいるでしょう。皆、それぞれに結構なことですが、その学びたい心が、皆が持っているその心を手伝ってあげるのが教育というものなのであるということ。学びたくない人間に、これを学びなさいというのは、これは教育以前の暴力というものです。
 もちろん学校教育というのは大事なものでございまして、とりわけ義務教育というのは、大事なことなので、読み書きと算数の初歩ぐらいは知っていた方が、社会生活の上で役に立ちます。字が読めなくてはいけませんし、簡単な足し算、割り算、要するに加減乗除ぐらいはできなければ、日常生活にも支障をきたします。しかし、それ以後のことは、もっぱらそれぞれの個人が持っている学習意欲によって決まってくるでしょう。何を勉強したいか人によってずいぶん違います。違うのが当たり前で、その違うことこそが個性というものなのでございますから、一人一人が持っている学習意欲を大事にしないところに、生涯学習ということは成り立ち得ませんし、そして生涯学習センターという、このセンターの機能もまた、満たすことはできないでしょう。
 愛媛県の生涯学習センターというのは、伺うのは初めてでございますけれども、全国の都道府県方々にできております。先程、生活文化からのことからちょっとずれましたが、県の学習センターとして、ここは最も先見性に富んだセンターの一つであります。恐らく、ここで行われている行事も、今申し上げましたような、毎日の学習意欲、それもごく普通の人たちの学習意欲にこたえるような行事を行っておられるに違いない。そういう意味で、こうしたセンターができたということは、大変素晴らしいことだと思いますし、こういう中で、それぞれの生活者が、自分自身の学問的とは申しませんけれども、知的ないしは美的な向上心を満足させることができれば、日本にとって、こんなに嬉しいことはないだろうと思うものであります。
 蛇足ではありますけれども、現在、生涯学習という考え方は、日本の文教政策の中では、中核的な考え方でありまして、学校教育もまた、生涯学習の一環だというふうに今は位置づけられています。つまり大学を卒業したから、それで教育とか学習が終わったのではなくて、むしろそれから後も学習が続いていくのです。むしろ学校教育というのは、それから後の人生に対するはずみをつけるような、いわば入門的段階なのであって、いくつになってどんなことを勉強し始めるのも大いに結構ではないかというのが、現在の行政の側からの考え方です。
 これは日本の教育の歴史、文教政策の歴史の中では、非常に革命的なことであったのではないかなと私などは考えております。こうした生涯学習への意欲を満たしていくこと、日々にまた新たなりという気持ちを、皆が持つことができるようになるような、そういう条件づくりが、生活文化の担い手たちである我々にとって、まず第1番目に大事なことだと思います。