データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛学のすすめ

*お年寄りの豊かな生活の知恵

常磐井
 愛媛らしさを一言で申しますのは、大変むずかしゅうございます。よそで生活した方はよく気付かれますが、75年も愛媛県人をしておりますので。ただ、らしさというのは現在の姿をしているけれども、連綿たる過去の積み重ねかとも存じます。私自身女性として、日々の暮らしにかかわりまして、衣や食の具体的な民俗を担って生活していると認識しております。当然、民俗学の視点が近うございますし、古老の聞き書きという民俗学の手法も活用させていただいております。お年寄りに昔の話を伺うというのはお互いに楽しいものでございます。
 今の若い人と年寄りとの継承がうまくできていない。そのために、愛媛の先行きを私は心配しております。と言いますのは、若い人に何か言うと、「時代が違う、おばあちゃんは古いのよ。」こういう言葉がすぐ返ってきます。私は、自分が75になってみて、年寄りというものは、初め起こった原因から、その過程を見て、結果、結果に近いところまで見届けることができます。
 そういうことを思ったら、年寄りは、いろんな体験を積んで、そして今日があるので、そのためには死ぬほどの思いも何回かして生きてきた。そういう人の言葉を実に軽々しく、耳に入れないで、つまり拒否してしまう。これが、今の時代の風潮ではないかなと思います。
 そして村には、それぞれのタブーがあります。あれは迷信だと言って片付けられない。例えば、「家を建てる時には、家の回りに木を植えよ。木も広葉樹のくぬぎのようなものを植えるか、柿のような生木(なりき)を植えよ」という教訓があります。それは、私の所は、肱川の水害地帯ですから、山のふもとの避水地に家がずっと建っております。そうしますと山崩れがいつ来るか分からない。かつてその苦い経験を先祖代々味わってきたから、家の後ろには広葉樹の木を植えよというわけですし、家を建てる時には、近ごろはやりのような、床の低い家はいけないぞと言っても、今のはやりがいいという。なぜ床が高くなかったらいけないかと言いますと、一斉に肱川が増水し、満潮が一緒に重なりましたら、ダーッと床の下に入ります。そうすると、今度は水が引く時を1分も間違えないように、竹のほうきでず一っと床の下に入った泥を流さなかったら、後でどれだけの手間がいって、また不潔であるか。そういう先人の知恵というものが、数えればきりがないほどございます。
 今の若い人は、利便性を追求するあまりに、地域らしさを失っていってしまい、とくに食文化についてみますと、年寄りが無農薬の野菜を作っても、やはり肉類とか買って来たマーケットのおかずを食べさせたりする。元々原点を探りましたら、日本人は腸の長さが70センチから80センチ欧米人より長いのだそうです。そのために、足も短くて胴が長いのだそうです。現在腸のガンが増えている原因は欧米風の食事だと言われています。こういう結果が出ております。
 ですから年寄りというものは、だてや法楽(ほうらく)(=なぐさみ)に生きてきたのではありません。あの戦争をはさんで、どれだけ苦労したことか。そして一つのことについても、非常に合理性があります。まるで生活百科辞典だと、私は言うのですが、そういう年寄りの話を聞こうとしない。子供を抱いたら、年寄りの息がかかるからいけないと言って、嫁に子供をもぎ取られてしまったなんていう話も聞きます。やはり何というか、年寄りの知恵というものを、誰が残すかというと、今の主婦が残さなければいけない。その主婦に年寄りの知恵を継承していただかなかったら、家の文化、むらの文化は衰退してしまうと心配です。
 本当に女性が目覚めたら、世の中を良き方向に変えていくことができるんだと思います。私は本当に年寄りの知恵というものに敬服しています。手仕事で鍛えた明治・大正生まれの人の手は、私は日本最後の手だと言うんです。あの節くれだったごつい手。あれはもう将来の日本にはない手ではないでしょうか。
 それから、何となく気が付かないことがあります。嫁入りをする時は、嫁さんが実家の玄関の敷き居をまたぐと、地方によっては「炒り豆に花が咲くまでお帰り御無用」と親戚のおじさんがおらぶ(叫ぶ)。すると「もう二度と実家には帰れないんだな」と覚悟が決まり、人生の中での重大なけじめをつけてたつ。そして婚家へ着くと、座敷の縁から迎えられます。なぜ座敷の縁から迎えるかと言いますと、玄関やお勝手の方は、しょっちゅう使っている所ですから、この最高の客を迎えるところといえば、もう座敷のお縁上しかありません。こうして嫁さんは、最高の客としてこの家に迎えられるのです。この風習は現在も同じでございます。
 今度は葬式の場合、お棺は座敷の縁から出ます。なぜ座敷の縁からお棺を出すか。これはその家の死者を、あの世へ最高の客として送ろうとする。私はそこに潜在的な敬虔(けいけん)心が、現在も習慣化しているのだと思うのです。解釈はいろいろでしょうけれども。
 家には、「煮物をするとき鍋のふたをあけてするものではない」というきまりのようなことが言われています。それは、もし不潔なものが入ったら食べられない。捨てなければいけない。そういうことにもなりますけれども、やはり鍋のふたをあけて煮る時は、死んだ人に捧げる団子や弁当などを煮炊きするときの風習が守られているからで、するものではないということは、生活習慣の生きている人と、あの世に旅立った人の、その明暗を分ける一つの区別で、だから縁起が悪いと言います。このような慣習は何代も前の先祖から引き継がれてきたものです。年寄りの言うことは、天理にかなっておることが多く、例えば学校から帰りでも、「帰る時には、小便を道へひるなよ。よその麦畑でも大根畑でも行って、そこでひらしてもらえ。」そこへ行けば、それだけこやしになります。そういうふうに、ものを生かす合理的な暮らしを実践してきました。
 それで今度いろんなことをお調べになる時には、まず女が立ち上がって、主婦が年寄りの話に、隣のおばあちゃんでも、うちのおばあちゃんでも、おじいちゃんでもいいんですが、耳を傾けてたら、家庭もスムーズに行くし、子供はもののいわれや伝説などが好きなのですから、そういうことに耳を傾けるということは、郷土愛の意識、価値観を培うことになって、素敵なのではないかと思います。これが継承する芽生えとなり、感性も養われるのではないでしょうか。