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愛媛学のすすめ

カルチャー・ショックにはじまる横浜学

 私は18歳まで山形市で過ごしました。横浜に移り住んだのは1966年です。70年に私は大学を卒業し、東京の出版社に入社しました。そこで14年間、編集者として働きました。当時は毎日、横浜から東京へ1時間半ほどかけて通勤しました。しかし、編集の仕事が多忙をきわめるにつれて、横浜に住みながら、いつしか私の1日の生活はすべて東京で完結するようになったのです。もちろん土・日は休日であったのですが、自分と横浜との接点はほとんどなくなってしまいました。つまり、私にとって横浜は、「生活のための場」ではなく、「睡眠のための場」と化したのです。個々の人間を中心に展開する出版の仕事にたずさわっているものにとっては、東京はじつに魅力にとんだ都市なのです。東京には昼夜の別なく多様な情報が集まり、新しい人間との出会いと新しい発見のチャンスがあるからです。
 1990年の国勢調査によると、横浜市の人口は322万人です。その人口に占める就業・通学者総数は189万人(39%)です。このうち74万人が日中市外へ流出し、さらにこの74万人中、46万人が東京へ流出しています。つまり、横浜市民の就業・通学者のうち、ほぼ5人に1人が東京へ日々通勤・通学しているわけです。横浜市民が「横浜都民」といわれるゆえんです。とにかく74万人の横浜市民が、先の私の東京生活ほどでなくとも、1日の大半を市の外で生活していることになります。
 東京や大阪といわず、大都市の周辺に住む多くのサラリーマンにとっては、いま自分が住んでいる地域(市町村)は、「生活のための場」というより「睡眠のための場」でしかなくなってきています。サラリーマンにとっては、自分が居住している地域が「睡眠のための場」から本来の「生活のための場」にかわるのは、ほんとうは定年退職後のことです。しかし、実際は定年後あらたに自分の地域に関わろうとしてもなかなかうまくいかないものです。
 サラリーマンが定年退職後に遅かれ早かれ経験する自分が住んでいる地域との出会い、それが私には25年も早くやってきました。というのは、私は1984年の春、横浜に「書物学」の専門出版社を設立するために東京の出版社を退社したからです。36歳のときでした。横浜に自社をおいたのは、出版社はどこにあっても、他にまねのできぬすぐれた書物を作りさえすれば、全国の読者に支持されるはずだとの確信があったためです。このときが、私にとっては横浜とのほんとうの出会い、つまり、都市横浜が「睡眠のための場」から「生活のための場」へ移行する時期にあたりました。私の場合は、定年退職後に何にもすることがなくなった「ぬれ落ち葉族」とか「わし男」とか呼ばれる人たちとは、ちょっと事情が違いますが、やはりその移行はスムーズにいきませんでした。それまで東京のメディアの最前線で生きてきた私には、横浜との出会いはまさしく異文化との出会いそのものでした。そして、その異文化との衝突をくりかえし、すさまじいカルチャー・ショックに悩まされました。「東京とは何か様子が違う」「横浜には何かが欠けている」との思いが日に日につのってくるばかりでした。
 横浜と東京、電車にして1時間足らずの距離なのに、人びとのものの考え方、とくに新しいことを生み出すためのプロセスが何か異なるのです。また、個人のもっている情報の質と量、さらに都市自体がもっている情報の質と量に、落差が驚くほどあるのです。
 とくに私を憂欝にさせたのは、日本第2の都市だというのに、編集者らしい編集者にほとんど出会えなかったことです。このことは出版データを調べてすぐ分かりました。『出版年鑑』によると、日本には出版社が4,320社あります。そのうち、東京に3,453社(約80%)が集中し、ついで大阪に215社(5%)、京都に143社(3%)、神奈川に67社(1.6%)の順です。その神奈川の67社のうち、横浜から全国へ向けて情報発信できる出版社となりますと十指にもみたないのでした。いわゆる、人・もの・金・情報のすべてが東京に集中しすぎているということは、私は頭では十分理解していたつもりですが、このデータからも推察されるように、横浜における出版メディアのさびしさには慄然とするものがありました。情報発信都市「横浜」など声高に喧伝するわりには、誰もが同じ符牒で横浜のハードウェアについてだけを語り、情報発信に最も必要なソフトウェアについてはほとんど語らないのです。じつに不思議なことでした。
 このたびかさなるカルチャー・ショックのなかで、編集者の本能でしょうか、私はなぜ都市横浜はかくあるのかという疑問をもつようになりました。とくに横浜人のものの見方、情報の落差、横浜のもつイメージと現実との乖離(かいり)、都市のハードウェアとソフトウェアのアンバランスなど、一口でいえば、都市横浜のアイデンティティに関わる疑問です。これらの疑問を自分で解くためには、まず第一に他人の手垢にまみれた歯の浮くような横浜のイメージや、観光パンフレット風の横浜像を一度払拭し、あらたに「自分の言葉」で横浜の過去・現在・未来の姿をとらえなおしてみることが重要ではないかと思いました。しかし、恥ずかしいことに、当時、私は横浜の全体像をとらえるための知識や情報をほとんどもちあわせていなかったのです。それに会社の設立に忙しく、体系的にものごとを調べようにも時間がありませんでした。