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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)銘柄産地の維持と意地

 ア 三崎農業を担って立つ

 **さん(三崎町大佐田 昭和22年生まれ 45歳)
 三崎町の大佐田は、およそ50戸の小さな集落であるが、古くから三崎集落と共に夏柑の産地として知られてきた。
 大佐田で生まれ育ってきた**さんは、中学3年生のときに父親が亡くなり、その後母親が苦労しているのをみて、子供ながらに「自分は家に居(お)って、農業をやらなければならない。」と心に決めていたという。そこで地元の三崎高校を卒業するとき母親に頼んだ。「『俺はもう、一生のうちに三崎町を出て生きることはないだろうから、せめて4年間だけ遊ばせて欲しい。』といって日大の農学部に入った。学校生活の間は、学校ストライキの花盛りの時代でもあり、ストにも参加したりアルバイトにも力を入れたりで、あまり身を入れて勉強することもなかったが、それでも卒業はできた。4年間の学生生活をふりかえってみて、いろんなことをしたり、多くの人と付き合った経験が、その後における自分の生き方に大いに役立っている。」と語る。
 学生時代のあるとき、やはり東京の大学に入っていた同郷の先輩が下宿にやってきて、「オイ、三崎の夏柑は干ばつの被害や寒さの害で安値で困っているらしい。はよ夏柑が売れるように宣伝せんとどうにもならんので、今から知っとるところへは片っ端から手紙を出そうじゃないか。」ということになった。そして、郵便はがきをいっぱい買ってきて、2人で5日間くらいの間、毎日毎日、学校の同窓会名簿を繰りながら三崎夏柑の宣伝につとめたという。当時をふり返りながら「僕は、こういうことには、それほど興味が無かったが、それでも卒業したら三崎へ帰って百姓せないかんと思っていたので、その片棒をかつぎました。このようなはがき戦術くらいでは効果はないと予測はできましたが、地元の緊急事態に何とか手伝いをしようとする彼の心意気に感心させられたのです。」と学生時代の思い出を語る。さらに「僕が高校を卒業してすぐ農業を継ぎ、三崎だけの生活に終わっていたら、このように農業が厳しさを増した段階では、おふくろに文句ばかり言っていたかも知れません。しかし、学生時代に都会の生活を味わい、自分で納得して農業を選んだだけに、農業にたずさわることに愚痴を言ったことは一度もないはずです。」と母親への感謝を忘れない。
 **さんが農業を始めてから2年くらい経ったころである。そのころ家で作っていた晩生の伊予柑が1kg当たり100円もしない安価であった。「こんな安い価格ではたまるか。」と思った彼は、農協へ出荷するよりも自分で売りさばこうと軽四輪に30ケースの伊予柑を積んで別府に渡った。ところがさっぱり売れない。住宅団地の一戸一戸の扉をたたいてみても「伊予柑なんかは要らん」という返事。なかには「ヨーカン」と間違えられて「そんな甘い物食えるか。」とどなられる始末。「いまから考えると万才みたいな話だが、当時は、住宅の人々が『伊予柑』をよく知らなかったようですね。病院回りをして、からかわれたり、夜はキャバレーにも足を運んでみたが、伊予柑の荷は一向にさばけない。こんな自分の姿がみじめでもあった。」と述懐する。いっそ海へ荷物を捨ててしまいたいと思ったこともあったが、それでも三度海を渡って、九州路に伊予柑を売り歩いたという。
 彼のこんな経験も、いまでは思い出の一つとなり、「百姓をしていて、それで食べていかれるようであれば、誰に頭を下げるでもなし、自分で胸を張って生きていけるだけでも幸せです。農業というものは、作った品物の値段がまあまあとれて、それで生活できれば、僕は百姓が一番好き。」と断言する。「そりゃ若いときには、ホワイトカラーや背広姿を羨しいと思ったこともあるが、今はもう、そんな気持ちは一切ありません。世の中どんなに変わっても、食糧を作る土地があって、自分でやる気さえあれば、何とか生きていけるものです。」農業への自信をのぞかす。
 **さんが大切に思っている「ふるさと三崎町」の農業構図は、時の流れとともに夏柑が甘夏、サンフルーツに変わり、さらに清見タンゴール、伊予柑などへの品種更新が著しい。
 彼が予測する三崎町の農業は、「農業は誰かが守らなければならない。いまの農家が100戸が100戸全部残れるかというと、高齢化の関係もあって農家数は確かに減少すると思います。しかし三崎町の農業という職業が全滅することはありません。作物の構成も形は変わってくるでしょうが、三崎町のサンフルーツは、他に競争相手の産地もないので、ここ当分は生き残り作物として存在すると予測されます。ただよく似たものに外国のグレープ・フルーツが大量に入るので、この2~3年のような高値は期待できません。いま町内に約6千tあるサンフルーツは、その半分くらいにまで生産が減るでしょうから、それくらいの量であれば、全国的には夏柑類の根強い愛好者もいるので、価格さえ高望みしなければ、十分採算のとれる作物といえます。」と分析している。
 「年配の人には、いま新しい作物に切り換えることは骨のおれる仕事でしょう。若い層では、2ha程度の経営規模になれば、一品目集中よりも伊予柑も入れ、清見も入れ、場合によっては温州ミカンヘの取り組みも考えなければならないと思います。温州ミカンは、真穴とか日の丸の産地が銘柄品として優れているので、例えばそこまで行ってミカンを作るということも必要ではないでしょうか。将来構想を考えると佐田岬半島を一つの単位くらいに考えて、適地適作の方向を設定し、温州ミカンの時期にはその適地で可能な程度のミカンを作り、サンフルーツや清見タンゴールの栽培は三崎町あたりの冬暖かい条件のもとで果実を育てるという方法も、検討しなければならない時代がもう来ていると思います。」と熱っぽく彼が説くのも、昭和58年度から9年間、三崎町農協の青果物担当理事として果実の出荷を受けもち、市場の動向や他産地の動きをつかみながら販売戦略を進めてきた体験がもたらすものである。
 いま**さんは、サンフルーツ80a、清見タンゴール80a、伊予柑60a、その他30aの2.5ha経営である。3年前(平成元年)に県果樹研究同志会のメンバーと一緒にアメリカ農業の視察に行ってきて、自分の目でその実態を確かめてきた。 
 「はっきり言って、アメリカの自然条件は恐ろしい。土でも砂漠の砂のようなもので、よほど土作りに金をかけなければ、農業なんかはできんぞと思いました。アメリカの経済が豊かなときには、農業へのテコ入れもできるであろうが、いまのような厳しい状態が続く限り期待感が持てません。そんな国に我が国の食糧を全部まかせていたのでは、一つ間違えば日本の食糧事情は大変なことになることを痛感しました。」他人依存に傾きつつある日本国民食糧の将来が気にかかるという。
 「日本の農業も、いまは負けていても、農業で生きていく気があれば10人のうち何人かは、十分生き残れそうな気がしました。わたしの住む大佐田にしても、いまある50戸の農家全部は難しいと思いますが、それぞれが1千万円なり1千5百万円を稼げる農家になれば、三崎の農業にも新しい展望が開けます。」三崎農業を担って立つ気概が伝わってくる。

 イ 産地生き残りの戦略

 **さん(三崎町名取 昭和10年生まれ 57歳)
 **さんは、三崎町農業協同組合の職員、販売担当部長、組合長などの経歴をもつ、その道の専門家であるが、このほど組合長を退任されたのを機会に、一農業者として三崎の夏柑を語ってもらった。
 「戦後の食糧不足の時代が終わり、作物の制限が緩和されるようになると、それまでの麦・イモに変わって一番多く植え付けられたのが夏柑です。農家が夏柑を選んだのは、導入当初の実績やこれまでの栽培体験から、三崎には夏柑がよくふさうという考え方によるものです。」と語る。その出荷組織としては、戦後のしばらくまで販路系統が複雑に分かれ、町内全域の「三崎夏柑」が一つの系統として組織化されたのは、三崎、神松名農協合併後の昭和33年からである。
 町内で一本化された三崎夏柑は、県青果連や西宇和青果農協の傘下に入らず、全く独自の組織で販売戦略を展開してきた。とくに八幡浜市・保内町の夏柑産地を掌握している西宇和青果農業協同組合とは好敵手の間柄で、夏柑の販売合戦に火花を散らしてきた経緯がある。
 終戦直後の三崎夏柑売り込みに際しては、相手にもしてもらえなかった神田市場あたりからも、昭和30年代の三崎夏柑には、プライスリーダー(市場の基本価格となる品物)としての位置づけで優遇され、夏柑の販売に当たっては、いつも三崎夏柑が最高価格で取り引きされていたという。市場や仲買人の取り引きにも、三崎の夏柑を頭において、他産地の価格ができあがっており、**さんの言によれば「三崎の夏柑を無視して、価格が決まることはなかった。」ほどの強い影響力を持っていた。言ってみれば、三崎の夏柑がキラキラ輝いた時代は、三崎農業の黄金時代ともいえる。
 当時の農家の生活をふりかえりながら**さんは、「三崎町の中でも、本三崎(三崎集落)に夏柑が一番多いのですが、ここの農家の人は、農作業の期間中は一生懸命仕事をするが、それが過ぎると出稼ぎや兼業をする人が少なくて、金使いも荒っぽい。金のあるうちは、腹巻きに金をねじ込んで『海を渡れば、すぐそこは別府』という話もよく聞かされました。
 その反動もあってか、年末になると翌年収穫する夏柑代金の前渡金を1億円から1億2千万円、農協が準備しなければ、正月の越せない人もいたほどです。三崎町全体としてはそれほどでもないが、夏柑本場の本三崎の生活が派手にみえたのは、夏柑の収入が他の地域よりも多かったことも一つの原因です。」と読む。
 したがって夏柑の黄金時代が終わり、しこうの変化や本格化したオレンジ類の輸入自由化問題が交錯する中で、なお且つ三崎町の農業が生き残っていくためには、どうしても三崎町農業の新しい顔が必要という。
 **さんは、三崎農協の青果物販売担当者として東京市場に駐在した経歴が長いだけに、市場の動きに精通し、関係者との顔見知りも多い。夏柑、甘夏、そして昭和48年ころから取り入れたサンフルーツ(新甘夏)と、時代の動きに合わせた品種更新の努力も、販売価格の裏付けが伴わない限りは、何の意味もない。それだけに市場や仲買人の間を走り回って有利販売の道を開くことに心を配った。
 「これは市場販売の通例であり、どの品物でも同じですが、いったん王座に決定した産地のそれを越して価格を取り決めることはできないのです。例えば甘夏では、御荘町Ⓜの甘夏がプライスリーダーに位置づけられているので、いくら三崎の甘夏が頑張っても、これを追い越すことができません。つまり、産地の顔になる作物を作らなければならないのです。サンフルーツも、初めのころは『甘夏より安いじゃないか。』と農家からお叱りを受けることもありましたが、生産量の増加と共にサンフルーツに肩入れをしてくれる市場もでてきて、次第に人気が高まり、甘夏価格を上回るようになってきました。
 「果実類の取り引きは、品物さえ良ければ、それで売れるということだけでは済みません。立値(たてね)市場での価格(その市場の基本価格)をどのように定着させるかが大切です。いま三崎で伸びはじめている清見は、まだ絶対量が少ないので、東京市場のような胃袋の大きいところでは飲み込まれてしまいます。そこで横浜の市場に焦点を合わせて出荷したことが、今日の清見タンゴールの価格構成に結びついているのです。その立値をつけてくれた市場の努力を無にしないで、市場と産地は今後とも信頼関係を大切にしたいものです。」と新しいプライスリーダーとして評価の高まっている三崎産の清見タンゴールの将来に期待をもつ(写真1-2-9参照)。
 三崎町単独の販売組織で活動を続けてきた〝愛媛三崎農業協同組合〟も、昭和55年に至り、当時の西宇和青果農業協同組合長(県青果連会長兼務)の熱心な呼びかけに応じて、大同団結に踏みきり、ここに八幡浜市、西宇和郡を一丸とした果実の生産・出荷販売体制に、三崎町農協も顔を揃えた。
 かつて夏柑黄金時代に横綱相撲をとってきた三崎農業にも、変革への時代の波がひしひしと押し寄せ、産地としての新しい対応が必要であった。とくに若い農業者不足や、町内高齢化の現象は、岬端という立地条件からみて歯止めのかかりにくい問題であり、西宇和青果農協との合併は、八西地域というこれまで以上に大きい組織の中で、活躍の広がりが期待され、行政ワクを越えた同じ土俵での問題解決が図れるのである。
 **さんは、農協組織の合併によって一歩前進した三崎町農業に対し「土地の流動化、耕地の集団化の必要性があるが、本当に百姓をやる気があれば、今が一つのチャンスと思われます。問題は生産物の価格が不安定で、再生産できるだけの補償がないのは気がかりですが、これはどの作物に取り組んでも同じことです。三崎町では、これまでにもいろいろな品種を入れてきた経緯はあるが、それを十分作りこなす期間のないままに転換したケースが目立ちます。このあたりは三崎の性格かも知れないのですが、もうこのあたりで方向を見定め、柱となる作物を定着させなければなりません。」「今後再生産できるだけの価格を保てるのは、いまのところサンフルーツと清見タンゴールが有利と思われるので、それに力を入れるべきだと考えます。価格もいつまでも昔のような『夢追い酒』ではいかんので、安定性、継続性のある価格を期待します。」長年、三崎農協における販売戦略の第一戦で活躍された**さんの体験から生まれた、販売哲学であり、生き残りをかけた産地維持への意地がのぞく。

写真1-2-9 清見タンゴールの袋かけ栽培(三崎町)

写真1-2-9 清見タンゴールの袋かけ栽培(三崎町)

平成5年1月撮影