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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)昔の街道を探る旅

 ア 昔の街道を歩いて

 平成4年9月27日足成(あしなる)の**さん、瀬戸町教育委員会**社会教育課長さんの案内で、三崎高校郷土研究部顧問**教諭、生徒3名で参勤交代の街道(地元ではこの道を往還道(おうかんどう)と呼んでいる)を探る旅に出発した。**課長さんより「地図で昔の陸路の幹線路は、現在とほとんど大差なく、高い山のところのみ避けて尾根づたいにうまく道をつくっていたようです。」と説明があり、堀切大橋の近くに昔の往還道があるということで、そこまで車で行き、御所浜(ごしょがはま)(三机)を見下ろすあたりの新国道から左へ入り、三机の佐市(さいち)線(町道)が新国道に交わる地点へ向かって昔の街道を探る旅が始まった。
 供ぞろえを従えた藩主が参勤交代を続けたであろう往還道。その道幅は1.5m位あったといわれているが、今は1mもない狭い道。その道跡も次第にカヤの茂みにまかせ、うっそうとして登る道もわからない状態だった。足の踏み場もない道をカマで切り開いて、バラに足をとられながらも何とか登ることができた(写真2-1-6参照)。
 旧街道に入って約1km位のところに長さ約10m位、高さ約1mほどの雑草に埋もれている石垣があり、これは**課長さんの説明によると「三机浦(瀬戸町)と二見浦(伊方町)の境界として築かれたものである。」ということである(写真2-1-4参照)。佐市のみかん山の頂上部に往還道の「一里塚」(昔の陸路は、里程を表すために一里毎に黒松と榎を植えさせた。)があったと言われる場所にいって松の大木を探したが、大木はもちろんのことその跡らしいものも探すことができなかった。そこにはお地蔵様(この道筋には、約400mおき位に立っていた。)があり、そこの立札に〝昔香るふる里の伝統行事、我等守らん、二見地区に栄えあれ〟平成4年旧暦1月18日夢太郎と記してあった。**さんによると「無病息災を願って建立され、地元の人たちの信仰もあつく毎年旧正月にはお飾り(しめ飾り)を奉納している。」とのことである。
 この頂上から左手には、青く澄んだ伊予灘が眼前に開け三机湾を眺望することができる(写真2-1-5参照)。そこから下ってまもなくお地蔵様があり、その眼下に亀が池(伊方町加周)が見え美しく波の輝く宇和の海を眺めながら下ってやっと新国道に出た。
 今日歩いた往還道。細い道でも大きな役割を果たした道。今はそのほとんどが草深く埋もれてしまっている。わずかに残る街道の道筋にコケむすお地蔵様、草に埋もれた石垣にそれらしいにおいをとどめるにすぎない。新しい道によって押しつぶされた旧道、遺跡等のともしびはいつまでも消えることのないよう祈りたい。
 人と物とが行き交う道路の役割が今さまざまに見直されている。人や物をより効率的に運ぶ高速道路のネットワークを整備していくと同時に、人の心に安らぎを与える道、人間に優しい道、旧道や里道を自然歩道によってよみがえらせ、自然と親しみ、楽しく歩ける道づくりも大切ではなかろうか。

 イ 県立三崎高等学校生徒の紀行文

  「旧街道を歩いて感じたこと」
 最初「参勤交代の道を歩く」と聞いたとき、あまり実感がわいてきませんでした。それは参勤交代の道と言っても約300年前のこと、今は当時の面影など少しも残っていないだろうと考えていたからです。しかし、実際に歩いた道は、僕が考えていたような道ではなく、道がどこにあるのかも分からないほどの山道でした(写真2-1-6参照)。僕は毎日山に囲まれて生活しているのに、こんな山道を歩いた経験はありません。
 この日歩いたのは宇和島藩参勤交代の道程の一部ですが、参勤交代の大変さが少しは分かったような気がします。最初あまり乗り気でなかったけれど、終わってみてとてもよい経験をしたと思いました。この経験を友人にも伝え、できればもう一度友を誘って歩いてみたい。

  「書物で読むのとは違ったすばらしい体験」
 僕は参勤交代の道をたどることで、地域の歴史に触れることができました。そしてこの経験は、僕にとって一生忘れることのできない貴重な思い出となりました。
 きちんと舗装された道を通るのかと思っていましたが、車から降りて「さあ、ここからだ。」と言われた場所は細い山道の前でした。はじめのうちは、まだきちんと歩けるような道だったので「ここを参勤交代の道として通っていたのか。」と自然に思うことができました。しかし、どんどん登っていくうちに道は想像を越えた道へと変わっていきました。左右にはクモの巣、上にもまたクモの巣が、さらに前にはくぐって通らなければならないような木が横たわっていたり、何かテレビの中の世界に来たような気持ちになりました。自分たちの住んでいる近くにこんな所があったのかと思うと同時に、昔はきちんと通れる道であったにしろ、こんな道を参勤交代の道として通っていたのかと感慨無量の思いがしました。
 このように僕は参勤交代の道の一部を歩いたことで、書物で読むのとはまた違った「歴史」というものを肌で感じることができたように思います。本当にすばらしい体験になったと思います。

  「ふるさと再発見」
 僕は参勤交代の道として塩成~三机間が選ばれたことについて何となく分かっていたつもりですが、今回の体験を通してよりはっきり知ることができました。
 佐田岬半島の先端の潮流が速いのでこの難所を避けるためであること、塩成・三机とも良港であること、そしてここに運河を掘削しようと試みたのが堀切跡であること、今までなんとなく通っていたこの堀切跡が、先人の努力の結晶であることなどよく分かりました。
 佐市の頂上の「一里松」は探し当てることができなかったけれど、この道筋に、無病息災のためか、参勤交代の安全のためか、お地蔵様が4体ばかり立っていた。なかには赤い胸あてをしたお地蔵様もあった。僕が住んでいる二名津の「こんぴら山」にも似たようなものが祭られている。
 近くに住んでいるのに、こんな道が残っているとは知らなかった。本当に貴重な体験となったことをうれしく思いました。

 ウ 旧街道を歩いて
          瀬戸町文化財保護審議会委員長 井 上 重 暁

 「堀割の旧蹟佐田は霞けり」
 伊予(宇和島)の俳人松根東洋城が句にした堀切である。
 今では新国道197号線で200mの「堀切大橋」がかかっており、北に瀬戸内海、南に宇和海が一望でき、背には大風車が回る素晴らしい景観を呈している。
 その国道の取付道路の周辺に昔の往還道があると聞かされ、平成4年5月14日我々文化財保護審議委員が現地調査をすることになった。周辺は戦時中甘藷(かんしょ)畑であった所で、幅1.2m程の往還らしい道跡があるが、雑草が茂り放題となり、草丈が1m以上もある茅(かや)、蔦(つた)、茨(いばら)で足の踏み場もない状況である。
 この古道は尾根づたいに伊方浦から加周(かしゅう)浦を経て三机浦に至る主要な往還道である。
 古くは伊達公も参勤交代で、海が時化(しけ)たときには伊方へ上陸し、陸路をとり三机の御仮屋へと行列を進められた由、御座船が佐田岬半島を回って来る間三机に逗留(とうりゅう)し嵐の収まるのを待って、船で上阪されたとのこと。今昔の感ひとしおだ。
 その往来を詳しく調べるため新国道から佐市線の交わる地点に向かった。南予用水施設の側の雑木林の中の急勾配に薄暗い旧道が所々に見え隠れする。頭上は雑木の枝に覆われ地面は深く掘り込まれ容易には歩けない現状だ。
 耕して天に至る佐市の蜜柑(みかん)山の頂上部に旧道の「一里松があり、村相撲の土俵やお地蔵様があった。」と言われる場所に行って松の大木を探したが、既に20数年前の台風で吹き飛ばされたとかで、現地を探し当てることが出来なかった。残念ながら調査を打ち切り、次回の調査に委ねることとなった。
 今回の踏査で歴史ある旧道が、歴史マップに表される事となったことが、何はともあれ嬉しい。先人がいかに苦労して道筋を選び利用したか、その見識に今更ながら敬意を表するものである。

写真2-1-4 三机浦と二見浦の境界石垣

写真2-1-4 三机浦と二見浦の境界石垣

平成4年9月撮影

写真2-1-5 旧街道から見た三机湾

写真2-1-5 旧街道から見た三机湾

平成4年9月撮影

写真2-1-6 雑草が茂り放題の旧街道

写真2-1-6 雑草が茂り放題の旧街道

平成4年9月撮影