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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)本県初の国立銀行を生み出した川之石

 第二十九国立銀行は、現在の保内町川之石に、明治11年(1878年)県下で最初に設立された国立銀行(*1)である。これは、近代銀行としても初めてのものであった。本項では、なぜ松山でも宇和島でもなく、川之石に初の銀行が設置されることになったのかを考えることで、当時の宇和海沿岸各地の先進性を考えて見たい。なお、この項の資料については、特に記載のない場合は、保内町教育委員会発行の「第二十九国立銀行と進藤放斎(ほうさい)(⑤)」によっている。

 ア なぜ国立銀行が川之石に設置されたか

 (ア)銀行設立の経緯とその後

 第二十九国立銀行(以下二十九銀行と略す)設立のきっかけは、元藩主の伊達家からの勧誘である。第2代大蔵卿(現在の大蔵大臣)になった伊達宗城は、明治10年(1877年)東京に第二十国立銀行を設立したが、この第二十国立銀行から宇都宮綱條、今岡好謙が10年秋に来訪・勧誘し設立の運びとなった。当初は宇和島の有志に働きかけたが機運が盛り上がらず、川之石にその話が持ち込まれたのである。この勧誘からわずか半年後の11年3月に営業を開始しているのは驚くべき速さである。
 勧誘当初から関わり、銀行の株主となった者は、以下の12名である(士族は含まれておらず、ほとんどが保内組の住人である。)。

 1万円以上 清水一郎 矢野小十郎 兵藤吉蔵 菊池清平 白石和太郎

 7~3千円 宇都宮壮十郎 矢野豫一郎 都築温太郎 田中 豊 上田京平 清水石次郎 進藤放斎

 資本金は10万円で、設置場所は川之石浦5番地としている。伊達家からの補助金は皆無で、(米価により)現在に比定すれば十数億円にあたる金額を分担するため、この12名は、設立前に勝手な行動や撤回をしないよう同盟書も締結している。非常な覚悟を持って設立に臨んだことがわかる。
 同年9月に松山に第五十二国立銀行、12年3月に新居郡東町(現西条市)に第百四十一国立銀行が設立されたが、この3つの国立銀行の業務内容を比較してわかるのは、二十九銀行の商人への貸出しの高さである。五十二、百四十一銀行が、金禄公債(きんろくこうさい)(武士の家禄(かろく)を廃止する代償に与えられた債券)の資金をもとに士族を中心に設置され、士族の新規事業への貸出しを中心にしたのに対し、二十九銀行は商人の手によって生まれ、この地域の商業活動に大きく貢献していったことがうかがえる。
 その後、「第二十九銀行」(明治30年に普通銀行に転換し「国立」の名称がなくなり「第二十九銀行」となる)は、南予の中小銀行を合併しながら、明治・大正・昭和を通じて県下の金融界に君臨し、昭和初期には川之石を本店として、宇和島・八幡浜・大洲・吉田・岩松の南予各地は言うまでもなく、別府・大分・宮崎にも支店を持った。「第二十九銀行」は、世界恐慌後の金融再編の中で、昭和9年(1934年)八幡浜商業銀行・大洲銀行と合併して豫州(よしゅう)銀行となり、さらに昭和16年(1941年)、戦時体制下での一県一行の政策により、豫州銀行、松山五十二銀行、今治商業銀行の合併で、伊予銀行が生まれた(⑦)。第二十九国立銀行は、現在の伊予銀行の淵源と言えるのである。

 (イ)第二十九国立銀行設立の背景

 なぜ、川之石に最初の国立銀行が出来たかについては、大正11年(1922年)より第二十九銀行の第7代頭取となった、佐々木長治氏(伊方出身)の以下の発言が示唆に富む。
 「……前略……川之石にどういうわけで出来たかというと、川之石付近には櫨(はぜ)が非常に多く産出しておった。そこでいわゆる蠟座というものを設けて、比較的金融が豊かについておった。伊達家が宇和島でならなかった銀行設立を川之石の蠟座の連中に図られ、遂に川之石に第二十九国立銀行が出来た。宇和島・八幡浜に銀行が出来なくて川之石に出来たというのはこういう理由による。しかしながら、第二十九国立銀行は伊達家からはあまり庇護(ひご)を受けておらない。ただ、設立当初において非常に勧誘・指導を受けたというに過ぎない。……中略……南予川之石は、早くより第二十九国立銀行が出来、前述の蠟座、或いは鉱山の開発、製錬所の開発、紡績会社の設立を見るなどいたしましたが、更にもう一つ帆船が非常に発達していた。松山なんか飛び越えて大阪との帆船による交通が発達していた。そのために早くより新知識がここに入ってきていた。私ども子供の時分に、川之石の親戚に預けられた時、犬がビスケットを食べ牛乳を呑んでいるのを見てびっくりいたしました。私等は、病気の時しか口にするのを許されなかったので。このように川之石は非常に早く文化が発達しておった。また、帆船によって、長崎へ行ったり宮崎の米を九州に持っていったり、単にその地方の物を運ぶばかりでなく、あちらこちらの物産の交易もしていた。……以下略……(⑤)」
 ここで述べられている、海運業や紡績業・鉱山開発について以下補足しておく(詳細は保内町誌(⑧)参照)。川之石は、雨井(あまい)・川之石の二つの良港を持ち、江戸時代(天保年間)から海運業が盛んであった。雨井の「おやけ」(菊池家)、「ほていや」(兵藤家)、「いずみや」(和田家)等の大きな廻船(かいせん)問屋は、千石船を持ち、地域特産の櫨・木蠟(もくろう)・魚や、九州方面の米・材木等を大阪方面に輸送していた。また後述の矢野小十郎の項で述べるが、川之石周辺の豪商・豪農らも、長崎貿易や大阪との交易に直接関わっていた。「川之石村郷土誌」によると、明治45年(1912年)の川之石村の船舶は、西洋形船・日本形船合わせて493隻にのぼり、出港1年間2,851隻・入港2,549隻であった。航路は大阪・神戸・高松・多度津・今治・高浜・守江・別府・大分・佐賀関・佐伯・臼杵・八幡浜・宇和島・岩松・深浦・宿毛・門司・小倉・若松をはじめ、宮崎県海岸一円を経て鹿児島に及んでいた(⑧)。海運業の繁栄は太平洋戦争まで続くが、明治末から大正にかけての電信電話の発達から、相場取引が帆船では不利になり、次第に石炭輸送が中心となってきた。しかし大戦中の徴用や船の売却、昭和20年の大台風の襲来による雨井港の消滅により、かつての繁栄は消えた。川之石も、八幡浜と同じく海とともに生きた町といえよう。
 また二十九銀行に深く関係するものとして、明治20年(1887年)に四国で初の紡績会社として設立された「宇和紡績株式会社」(川之石)を挙げねばならない(詳細は保内町誌)。この創立委員・取締役には、兵藤吉蔵・矢野小十郎・上田京平・宇都宮荘十郎・浅井記博・菊池清治の名前が見え(⑧)、前に述べてきた二十九銀行の創立者と八幡浜の豪商の多くがここに参加している。この設立についても、大阪の川之石出身者に外糸輸入の状況から紡績業の有望なことを勧められ、創立計画は大阪にて進められたとあることから(⑧)、当時の阪神方面との強い結び付き、海を通しての情報流入の速さをうかがいしることができよう。二十九銀行の存在により、資金借入れをスムーズに行うこともできたであろう。この宇和紡績は、その後東洋紡績川之石工場となって、昭和35年の閉鎖まで中心産業としてこの地域の経済を支えたのである。
 さらに、佐田岬半島には多くの銅山(大正年間の最盛期には30余あり、主要鉱山としては今出(いまで)・大峰・九町(くちょう)・高浦(たかうら)・二見(ふたみ)・平磐(ひらばえ)があげられる)があり、戦前まで採掘が行われ別子銅山に次ぎ四国第2の産出量を誇った(⑦⑨)。これらの銅山のほとんどは明治20年代に開発・操業し、その初期には大部分を白石和太郎、宇都宮荘十郎、矢野荘三郎が経営している(⑨)。白石・宇都宮は二十九銀行の創設者の1人でもあり、時期的に見てもやはり二十九銀行との関わりの深さを推測できる。二十九銀行を生み出した、当時のこの地域の人々の先見性と企業家精神は、愛媛の近代産業導入に大きな足跡を残し、また二十九銀行の存在がそのような新事業の勃興を可能にしたと言えるのではなかろうか。

 イ 第二十九国立銀行を生み出した男-矢野小十郎(こじゅうろう)

 第二十九国立銀行の創立者の一人である矢野小十郎は、幕末から明治初期にかけて活躍した、川之石を代表する豪商である。彼の事績を自筆の「矢野正方履歴畧記(りゃくき)(⑩)」からたどってみることで、国立銀行を生み出した当時の川之石周辺の社会状況を見ることとする。
 矢野小十郎(幼名辰三郎、その後父の名を引継ぎ小左衛門と称し、25歳の時正方を実名とし、明治2年小十郎と改める)は、文政3年(1820年)川之石浦に生まれた。父親も商人だったようであるが、彼の代に地域の有数の富豪となった。
 この年表から、国立銀行創立に至る当時の川之石周辺の状況について、多くの示唆を得ることが出来る。一つは、当時の宇和海沿岸地域における、驚くべき交易の進展ぶりである。小十郎は、すでに二十歳前から(両親に連れられる等して)四国各地を歩いている。その後も、特に大阪・中国・九州方面に度々でかけている。1837年に大阪に行った際は、大塩平八郎の乱の直後であり、「(平八郎)徳望あり……、府民挙げて神のごとく尊敬し大いに望みを属す。……大火にてその物品を灰燼に帰せしめたるにも拘らず大阪の人民にあっては却って大塩を保庇して政府を悪むの風ありし(⑩)」と記している。また1847年の山陰旅行、1855年の江戸・関東方面への旅行、1856年の長崎行きは、寺社参詣や虚弱の体質を心配しての名医診断(二宮敬作等)を一応の目的とはしているものの、「畧記」に自ら「雲州(うんしゅう)松江は山陰の都会なるを聞きしゆえ、地形業務等の事を実見(併せて雲州松江、伯州米子は木綿産出の地ゆえその模様を実見したく望みあり)せんと思ひおる折柄、その誘いに接し……(⑩)」と記しているように、商人としての各地の情勢の把握のためであった。これは、彼一人のことではなく、常に数人の同行者がいることからも、当時のこの地域の商人が(現代の我々の想像以上に)全国を歩いていたことが知れよう。その見聞の広さと、情報収集の速さ・的確さが後の銀行創設に結び付いていくのである。
 小十郎の商取引の中心となっていた物品に木綿がある。1851年(嘉永4年)には、以下のような記載がある。「夏より秋において宇和島地方各浜とも鰯の大漁にて、婦女子に至るまで皆これに従事す。かかるゆえに仕来りの木綿の機織休業同様にして、木綿仕成できず。当家は木綿商なりしも、大漁に就きては鰯・干鰯類買入れ瀬戸内より上方へ積み送り相当の利益を得るも、五反田の紺屋或いは大洲辺の晒木綿商等は原品欠乏して休業同様……中略……(これらの店には相当の貸付けもあり、後日の商売の障害にならないようにするためにも救済しようということで)手代吉蔵を召連、喜木津浦より船借切り、周防国大島郡家室(産地として従来買入れてきた地、現山口県)へ渡航し有品買入るも充分の買入出来難く、なお資金の余りを持って久賀浦へ山越えて赴き、本綿縞買入れ船積みして帰国せり。(⑩)」この記事からも、当時宇和海沿岸各地において、非常に機織等家内工業が盛んであったこと、また宇和海沿岸の物産を背景に、小十郎らの商売の進展があったことがわかる。
 次に慶応年間以降の小十郎ら川之石周辺の商人と宇和島藩との結び付きに着目したい。宇和島藩と八幡浜商人による長崎貿易については、前項(1)で述べた通りであるが、その兵藤寅一郎の日記の(小十郎を船主とする)慶応元年(1865年)の長崎行きと照合する記事が「畧記」にもある。その中で、荷物積込の際依頼に応じ矢野豫一郎、上田京平ら7人が同乗したとあり、川之石周辺の商人も多く長崎貿易に参加していたのではなかろうか。
 藩との関係で取り扱った物産として目立つものに、蠟・紙(泉貨紙)がある。当時宇和島藩では、蠟・紙の専売制をしき、藩の財政収入の中心としていた。慶応元年、小十郎は蠟座締役(しまりやく)を命ぜられ、最初辞退したものの、これを受けている。「宇和島藩にあっては、方今全国一般の形勢容易ならざる事に立ち至らん。……隣藩にても頼むべからず。よろしく独立を図り我が藩をして富饒ならしむべく、依りて領内物産の第一たる生蠟を一手販売なすこととし……(⑩)」と特筆し、その後藩のために様々に奔走していることから、幕末の激動の中で、小十郎としても理想に燃えて、商取引の枠を越えた取組みをしていた様子である。また慶応3年(1867年)水師場御用のための兵庫行きは、将来的な外国船への兵庫開港(後に神戸に変更)について、兵庫に藩の販売所を設けようということであったが、「何分士族輩は商事その他不慣れの事ゆえ可否を論ぜんがため御用申し付けたり(⑩)」と相談を受けたとあり、商取引において川之石・八幡浜の豪商の情報・商売の実績に大きく頼っている、当時の宇和島藩の様子を知ることが出来る。1875年(明治8年)製紙(泉貨紙)の運営資金不足について旧藩より相談を受け、資金調達のために銀行類似組織として潤業社(じゅんぎょうしゃ)を創設していることは、藩の勧誘を受けて第二十九国立銀行が生まれる2年前の事である。このようなそれまでの小十郎らの動きを考えることで、国立銀行が川之石に出来た理由がうなずける。
 (1)(2)で述べてきたように、幕末から明治にかけての、八幡浜・川之石を中心とする宇和海沿岸地域は、海を通しての物産の交易、情報の収集により、優れた先進性と活力を持っていた。そのような先人の業績に学び、その伝統と文化遺産を受け継いでいくことが、今後の発展につながっていくのではなかろうか。


*1 明治5年(1872年)の国立銀行条例により政府が設立を勧めた紙幣発行権を有する金融機関。「国立」とはいうものの
  政府が認可しただけで、実際には民間資本により設立され、その信用により兌(だ)換紙幣を発行させて通貨の安定・資金
  供給をはかった。明治15年(1882年)日本銀行の設立で発券機能を失い、その後普通銀行に転換するまで全国で153行が
  設立された。