データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)かまぼこ-八幡浜特産品としての伝統

 ア 八幡浜かまぼこの特質と歴史

 (ア)八幡浜かまぼこの位置付け

 平成3年度における、愛媛県の水産ねり製品の製造高は15,477tで、全国17位、全国シェアの1.8%を占め、他の四国三県の2~3倍の製造高である(中四国農林水産事務所提供資料による)。その中で八幡浜市は、県内随一の水産ねり製品製造高を誇る。八幡浜と並ぶ生産地である宇和島と比較すると経営規模が大きい。これは大規模経営の業者が数社存在するためであるが、一事業所当たりの従業者数は、県下の平均と同じく10人前後の小規模経営が多い。

 (イ)八幡浜かまぼこの特質

 八幡浜のかまぼこは、味の良さで知られている。前述したように、(同じく県内随一の)市場からもたらされる新鮮な魚を抜きにして、八幡浜かまぼこは語れない。原材料の使用状況について見ると、季節による変動等はあるが、おおむね6~7割を生魚に頼っている(⑪)(全国的には冷凍すり身(*)が原料の7割近くをしめる)。これは全国産地の中でも、伝統的製法を守った数少ない存在となっており、愛媛県の伝統的特産品に指定されている。一方で、製造工程の中で生魚の解体処理が最も機械化が進みにくい箇所であり、生産の合理化をはばむ要因という点で逆に問題点の一つともなっている。しかし、県の産地診断報告書の中で、産地全体のイメージアップのポイントとして、「他産地にない独特の味がある」「伝統的製法を守っている」「鮮度の良い原魚に恵まれている」という点を、ほとんどの業者が挙げており(⑫)、この特質をより発展させようとする企業努力を続けている。
 販売先を見ると、南予・中予の売上げが、販売高の6割近くを占め、四国全体では4分の3を占める。生物としての制約と交通上の関係もあり、他のかまぼこ産地と比べ、地元依存度が強いのが特色である(⑫)。しかし、瀬戸大橋の開通による他県との競合も始まっており、また、今後売上げ拡大を図るためには、大消費地である、近畿・関東への販路開拓が必要であろう。

 (ウ)八幡浜かまぼこの歴史

 八幡浜かまぼこの創始は、鈴木峰治によるとされる。明治4年(1871年)生まれで宇和島出身の峰治は、当時宇和島ですでに製品化されていたかまぼこ等を、川之石等に売り歩く際に、八幡浜港に水揚げされる大量の鮮魚を見て八幡浜への定着を決意し、明治20年代に八幡浜での製造を始めた。近辺の人にも新しい製法を教えると共に、できあがったものをてんびん棒で担いで九州まで売り歩き、九州では「伊予のハンペン屋さん」として有名で、八幡浜かまぼこの販路開拓の先駆者でもあった。峰治は、屋号を「鈴間屋」とし、さらに明治31年(1898年)より缶詰かまぼこの製造に乗り出し、遠く韓国・中国・ハワイ・南米にまでその販路を広げた(⑮)。峰治の成功に刺激され、豊富な鮮魚の存在という恵みを生かして、多くの人々の努力により、八幡浜のかまぼこ製造は発達してきたのである。大正5年(1916年)には、峰治らの提唱により、八幡浜蒲鉾同業組合が結成されている(⑮)。昭和10年(1935年)発行の「八幡浜の文化」によると、当時三友商会とスター缶詰製造所の2社が、それぞれカンガルー印・スター印と称して、西オーストラリア・南洋方面等の海外市場にかまぼこ缶詰を輸出し、十余万円の利益をあげている、との記載がある(⑤)。

 イ 八幡浜かまぼこを全国ブランドに-製造業者としての歩み

 **さん(八幡浜市江戸岡 昭和2年生まれ 65歳)八水蒲鉾株式会社会長

 (ア)蒲鉾生産の変遷-会社設立前後

 「戦前は、缶詰等をのぞいたら、ほとんどのかまぼこ製造業者は家内工業でした。わたしも父に連れられて、8歳位の時から魚市場に出入りし、小魚のせりにも立ち会って見たりしてました。当時は、トロールの休漁期間である夏季は、かまぼこ業も休みで、その間は削りかまぼこを作ったり、氷屋さんに出稼ぎに行ったりしてました。昭和25年に、(食糧)統制がとけて、自由販売で本格的に製造が復活することとなり、わたしが仕事についたのもこの年からです。
 船の設備は進んで漁獲量が増えてましたが、かまぼこ製造の設備は遅れており、魚肉をミンチにするのも練り上げるのも当時はほとんど手作業でした。それが、昭和25・6年頃に宇部(山口県)の池内鉄工所により、かまぼこ製造機械(擂漬(らいかい)、成型の工程)が発明され、その頃から徐々に機械化が進みました。この頃は、わたしも若く、若い衆を10人くらい雇って親譲りの店を本格的に拡大しようと、朝の5時から晩の10時まで懸命に働く毎日でした。またよく売れもしました。
 昭和32年に、前社長らと語らって、昔ながらのやり方で家内工業のままでは生産拡大もなにもできないから、企業合同をしようということで、8業者によって会社を設立しました。「八水」と言う社名はそこからきています。組織をしっかりせないかんということで、企業組合ではなく株式会社にしました。その頃はとにかく皆がむしゃらに取り組み、工場設立・稼働まで(既存の設備を利用したとはいえ)2か月もかかりませんでした。35年頃から会社が軌道に乗り始めました。この前後は機械化も進みましたが、みんなで徹夜ということも度々でした。わたしらはよかったですが、年配の方はしんどかったと思います。とにかく、今までは一人一人独立独歩でやっていた職種であったのが、組織としてまとまって動いていくというところに、大きな苦労がありました。」

 (イ)販路、製造工程、製品の特質

 「昭和30年すぎまでは、トロールの休漁期間は休んでおりましたが、企業としてやっていくためには腐りにくいものをということで、薬品会社や包装会社との協力開発で、防腐剤やセロハンを改良してきました。昭和40年前後に、北海道からの冷凍すり身が入るようになって、原料の安定確保ができ機械化も進み、会社が大きくなってきました。ただ、八幡浜かまぼこの味の良さというのは、他県と違って今でも大部分を鮮魚で作っているというところにあるので、それはこれからも守り続けていきたいと思ってます。ただ鮮魚は季節によって価格の変動が激しく、商売としては辛い面がでてくる時もあります。
 昔は、荷車や自転車で大洲まで配達しに行ったり、他の業者と一緒に集荷して小型トラックで松山まで運んだりもしました。また昔は、土地土地でかまぼこを作っており、そう遠方にまで売りにいくということはありませんでした。喜多郡(内子町)等の市場でせって、値段が決まったりということもありました。とにかく生鮮食料品で賞味期間は1週間から10日ですから、運送期間の問題もあります。宣伝することも無かったし、販路は四国どまりでした。昭和42・3年頃から交通の便が良くなって、阪神方面への出荷も始めました。従業員や株主の知人を頼って、お盆やお正月前の時期に、こちらから出向いて販路拡大に努めました。しかし当初は知名度も低く、送っても元も取れんようなことも度々でした。最近、それもようやく安定してきましたが、毎日食べていただく方法はないかということで、現在は問屋制度を設けて販売しています。
 売れる時期は、やはり盆・正月、運動会・結婚式等の続く秋口で、この時期は大変忙しい思いをします。また、魚は毎日入ってきますので、わたしどもの会社では週休2日の代わりに週44時間労働制にして、交替で休むようにしており、来年は40時間にする予定です。かまぼこというのは好不景気があまりなく、まじめにやっておればそれほど食いはずれがない商売ではあります。ただ、最近の食生活の変化で、需要が低迷していることから、消費者の嗜好に合った製品の開発に努めております。
 現在の従業員は約100名で、工程のほとんどはオートメ化されています。やはり一番人手がかかるのは、魚をさばく下ごしらえで、これだけは常時30人ほどが手作業でやってます。また、やはり練り上げ等を手作りしたものは粘着度等風味が違い、高級品にはなりますが、これらも大事に残していきたいと思っています。工場が手狭になり、一時は郊外への移転を考えたこともありますが、ここの水がいいことと、魚市場に近い利便から、最初に設立したこの場所で商売を続けています。八幡浜の名産品としての伝統、伝統技術としての誇りを大切に、これからも製品を作り続けていきたいと思っています。」


*冷凍すり身
 昭和35年にスケトウダラの冷凍すり身が開発されて以来、水産練り製品の原料として年々使用量が増加し、現在では全国の練り製品の7割は冷凍すり身と言われている。冷凍すり身の普及で、季節に関わり無く需要に応じた生産ができるようになり製造業者の立地を、原料立地型から消費地立地型に変化させた。ただ、冷凍すり身が全国的に主流となっているため、画一的な味となって各地方の産地の特色が無くなっていることが現在の問題となっている。また(鮮魚を主原料とするのに比べ)すり身は甘みが強く、うま味に欠けているので、調味料等にある程度頼る必要がある(⑯)。