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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)浜と切り離せない暮らし

 今回の調査を進めるうちに、「シタテの生活は、砂浜と切り離しては語れない。」という言葉をよく耳にした。瀬戸町のシタテの地形的特徴を一言で言うと、長く続く砂浜である。集落も塩成、川之浜、大久と砂浜に面したところに形成されており、そこに住む人々の暮らしも浜とのかかわりが深い。
 戦前の生活はいわゆる「半農半漁」で、大久にもイリコの地引き網が3統あった。イワシの時期になると山の上に見張りが立つ。魚群を察知すると網元に連絡が入り、山の畑で仕事をしている**さんたちも、合図とともに浜に出て網を引いたそうである。獲れたイワシは浜に広げられ天日に干されて、イリコとして出荷し現金収入を得ていた。生活の基盤は浜ということになるが、それだけでは生活が苦しく周期的に出稼ぎに出る家も半数近くにのぼったらしい。シタテには腕のいい職人が多かったので、大工などとして関西方面に多く出ていた。現在では出稼ぎに出る人はいなくなったものの、「魚はもう獲れない」そうで、漁業に力を入れている人はあまりなく、農業が主体となっている。
 農業をとおして見た経済の移り変わりは、まさに激動の昭和史である。戦前には養蚕が盛んで生活の半分くらいを支えていたが、価格の低迷に加え、戦争で食糧生産が求められるようになり、「カイコでは食べていけない。カイコに食べさせるクワよりも、人が食べるイモを」といって、養蚕は減少した。
 戦後、農業の主力はサツマイモとムギ、ソバ、キビ、アワの生産であった。「イモの時代は、体はきつかったけれどよかった。」と、**さんが目を細めた。当時の食事はイモと麦飯が主である。朝早くから夜は10時・11時まで目一杯働き、日没までは開墾に努め、夜は月明かりの下で、細く切ったサツマイモを砂浜に広げて「切り干し」を作った。脱穀や穀物の乾燥も浜辺を利用したという。ここにも、浜とのかかわりが見られる。
 戦後まもなく、三崎の先端から漁師がやって来て、イモの切り干し1貫目(3.75kg)とブリ1貫目を交換して帰ったそうだ。大久の人たちにとって「ブリはそれほど珍しいものではなかったが、『物のないときはお互い様、漁師は大変よ』と思って、快く交換した」そうだ。食糧不足の折、切り干しは炊くと2倍くらいに増えるので、畑を持たない漁師たちにとっては魅力的なものだったのである。

 【参考】現在のサツマイモとハマチ
 世は変わって今では、塩成を中心に、若い人たちがサツマイモを町の新しい商品作物「瀬戸の金太郎」として売り出している。愛媛瀬戸町農業協同組合の**さん(27歳)に聞くと、このブランドは半島随一で、農協出荷価格は約400円/kg程度だという(このうち農家に渡るのは270~300円)。そして、商品価値の低いくずいもは個々の農家で薄く切られ、軒先などで天日に干されて「切り干し」となる。宇和島の製あん業者等に年間30tほどが約120円/kgで出荷されている(このうち農家に渡るのは約100円)。おもにあんこの原料として利用されているそうだ。くずいもとはいえ人手が多くかかった「切り干し」と、一流ブランドに育った「瀬戸の金太郎」との価格差は、ブランド指向の現代の姿を反映しており、時の流れを感じさせる。
 メロディーライン沿いの瀬戸町農業活性化センターで「カンコロイモ」を売っていた。近所の主婦が干したもので、ときおりこうして売られるという。1袋(100g)が200円であった。
 一方ブリの値段を、松山の鮮魚店で聞いてみた。「1貫目のブリはずっと入らないが、4kg程度の養殖ハマチなら、だいたい7,000~8,000円くらいだねえ。」との返事であった。漁師さんの懐がどの程度潤うのか知りたくて、三崎漁業協同組合の**さん(42歳)に尋ねた。季節により差はあるが、天然もののハマチを800~1,000円/kgで活魚の状態で市場に出荷しているそうだ。漁師の手には、このうちの8割強くらいが渡るらしい。「養殖ものだと、もっと安いんですか?」と素朴な疑問を投げかけると、「このあたりじゃみんな天然もので、養殖ものはないんですよ。それに、市場でもそれほど値段に差はありませんよ。」とのことであった。
 40年の歳月を経た今日では、イモの切り干し1貫目(3.75kg)とブリ1貫目を比較すると、10倍近い価格差が見られる。単純に当時と比較して論ずることはできないが、「100円の品物を1,000円で買った」漁師がいかに食料に窮していたかが、分かるような気がする。

 また、みかんが始まるころまでは1軒に2頭くらい「子出し」用に牛も飼い、現金収入を得ていた。畑の草や、山の上の草を刈って牧草にしていた。子供たちもよく手伝い、小学生のころは朝学校へ行く前に、オイコを背負って山の上から家まで草を持って下りたという。牛たちは人家に隣接した小屋で飼われるが、昼間は浜辺で放し飼いにされた。最盛期には、白い砂浜が真っ黒になるほど多くの牛が放されていた。このように、浜は生活の糧を得るための重要な場となっていたのである。
 現在の農業の主力は柑橘類の生産に変わっている。このあたりは、半島の中でも柑橘への転換は最も遅かったらしい。「台風がよく通るので、みんななかなか切り替えようとしませんでした。それに2・3年に一度は干ばつもありますし、いったん枯れると立ち直るまでに2・3年はかかりますからねえ。干ばつになると見殺しはできませんから、上まで水を運んでやるのですが、これが大変な作業なんです。」という理由からである。
 ウワテは土が湿っていてみかん類はあまりおいしく育たないため、中晩柑類(イヨカン、甘夏柑など)が主体である。それに対して、シタテは適度に乾燥しているうえ、年中霜が降りないなど気候的にも恵まれており、いろいろな品種がおいしく育つそうだ。**さんのお宅で現在生産している品種は、みかんが早生、楠本(極早生の一種)、ほかにイヨカン、キヨミタンゴールであるが、「キヨミタンゴールは昨年の台風でやられて枯れた。」と、ぽつりと語った。
 みかん農家の中心は50~70歳で、若い人はめったにいない。「嫁もなかなか来ないし、みかんの値も下がり、将来の見通しがたたん。37歳になる息子も、学校へ上げたときには跡を継がせる気だったが、今は京都の農政局に勤めております。」と、淡々と語る。
 正月には帰省しない子供たちも、毎年夏休みには孫を連れて帰ってくる。「夏に戻ると、すぐ前の海で泳げるでしよ。それがいいらしいんですよ。」
 半農半漁の生活の名残と言えば、「小さな船は、皆持っとる」そうで、**さんも船を持っている。「一本釣りならば権利なしで誰でも魚を捕れます」というにもかかわらず、ちゃんと漁業組合にも加盟している。サザエ、アワビなどを本格的に採る人は少ないが、それで生計が成り立ち、蓄えも良さそうとのことである。**さんの場合は農業の合間に漁に出る程度で、「遊びで魚を釣る」という。自慢のみかんのほか、こうして釣ったアジなどを冷凍したり、ヒジキも自分で採ったものを干して、京都にいるお孫さんに宅配便で送るのが楽しみだそうだ。
 現在は、生活の糧を得る場所としての浜の役割は薄らいでしまったが、浜のぬくもりは、宅配便の中にこめられて、次の世代へと受け継がれているように感じる。