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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)「三机」の由来と、港の成り立ち

 三机という地名の由来について、「瀬戸町誌(⑥)」には次のように記述されている。

 『古老の説によるとその昔、神武天皇が九州征伐を終えて御東征の途中、伊予灘(瀬戸内海)で暴風雨と高波に逢い舵はとられ櫓も折れて幾日間も漂流を続けられたそうで、ようやくのことに三机湾に入港されて遭難を免れたそうである。荒れ狂う外海とはうって変わった湾内の静けさに天皇御一行は大変御気に召され、しばらく御滞在になられた由、この故事にちなんで御着江(みつくえ)と呼ぶようになりそれがなまって三机に変じたという説と今一つの説によると七、八世紀のころ九州方面から朝廷への貢物を送る船が三机の入江に出入りしていたので貢江(みつぐえ)と称したとも、更には九州の宇佐八幡の御分霊がある年の正月元旦須賀の沖の浜辺に机三脚が波にゆられて流れ着いたのを当地の古沢家の御先祖の方が発見され祀られたところ一夜のうちに現在の須賀の砂洲一名ゆりあげ浜ができたので三机と名付けたとも伝えられている。……』

 また、山田進平氏著の「南海風物誌 三机物語(⑦)」によれば、『・‥三机湾の底に机状の岩が三つあるので、三机と呼ぶのだと土地の人はいうが、私は〝水浸く江〟であると思う。古語に宛字して三机にしたのに違いない。……』という記述も見られ、地名の由来が諸説さまざまで楽しい。
 今回の調査でお世話になった瀬戸町教育委員会生涯教育課長の**さんは、以前、町の港湾課に勤めていたそうで、三机湾のことにも詳しく、この話について尋ねてみた。「三机湾にそんな岩があるということは、聞いたことがないなあ。」ということらしく、わざわざ町役場の港湾課から「三机港改修計画平面図(S=1:1000)」を取り寄せてもらった。三机港のかなり詳細な水深が記されている。岸から20mのあたりが水深5m、岸から50m前後に水深10mの等深線が走っており、湾のかなり奥まで深さが保たれた良港であることがよく分かる。いただいた図に1m間隔の等深線を引いてみたが、「机状の岩三つ」を見つけることはできなかった。
 この天然の良港は、海賊に侵略されるなど不安定な時期を経たが、天正6年(1578年)井上善兵衛尉重房が三机に中尾城を築城して以来、順調な発展をとげた。
 藩政時代、宇和島藩主の参勤交代は、原則として①宇和島を出た船が三崎浦から鼻を迂回して瀬戸内に出るコースをとっていたが、天候の都合その他で②塩成浦に着き船のみを迂回させ、藩主は塩成浦から三机浦へ山越えをした場合が多かったようである。宇和島をあとに江戸へ向かう藩主にとっては、所領最後の寄港地となる三机は万感胸に迫るものがあったであろうし、それゆえに、ことのほか三机の町を大事にしたことが推察される。また、西国大名も佐田岬半島唯一の寄港地として利用し、各地の文化が集積する町として繁栄した。
 明治以降は、阪神航路、尾道航路、高浜航路など海上交通の要所であると同時に、漁港としても栄え、数軒の魚問屋も存在したという。鉄道の発達に伴って、昭和10年ころからは交通都市としての機能を消失し、漁業の不振と合わせて、町のにぎわいは急速に色あせていった。こうした繁栄の歴史的な背景が、富裕と文化に誇りをもつ「三机人」独特の気質を育て上げ、今なお人々の心に受け継がれているようである。