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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)八幡浜地方における綿織物業の勃興と発展

 ア 江戸時代末期における綿織物業の起こり-八幡浜綿業の夜明けの時代

 八幡浜地方の織物業の起源に関する伝承によれば、江戸時代末期の文化・文政年間ころの諸村浦では、農漁家の副業として篠巻(しのまき)から糸を紡(つむ)ぎ、手機(てばた)で木綿を盛んに織っていたといわれる。
 文化年間(1810年ころ)、五反田(ごたんだ)村の成実屋勘右衛門(なるみやかんうえもん)が名古屋の鳴海(なるみ)から絣(かすり)を学び帰った。絣の経営は、綿替商が買いとった篠巻を農家に渡し、糸を紡がせて織らした製品を売りさばいた。
 文政10年(1827年)には、布喜川(ふきのかわ)村の庄屋摂津(せっつ)八郎が地の厚い地織り物に不満を抱き、松山から改良された高機(たかばた)一台(機の全体の構造が高くなっているので高機と呼ばれた)を購入し、習熟した女工2名を連れ帰って始めたのが機織り業の最初といわれる。これを見習う者が漸次機業を始めるようになった。そのころの製品は糸入縞(しま)といわれ、絹綿交織布で絹の光沢と綿の風味が調和し好評であった。
 天保年間(1830年~40年ころ)には宇和島藩主伊達宗紀(だてむねただ)より賞詞を受け、伊達家を通して江戸表へ移送されて名声を高めた(藩主の前で高機の実技を披露して藩主の意にかなったともいわれる。)。
 染色技術は、天保5年(1834年)谷口文六が巡礼で阿波を通った時、葉藍(はあい)の植え付けを見て種子を持ち帰り、天保9年には河野六兵衛が苦労に苦労を重ねて葉藍の床付けに成功した。さらに、菊池豊治が絞(しぼ)り染めを初めて創作し機業発展の基礎を作った。
 このようにして幕末では織物の年産が3万反から5万反に達したといわれる。

 イ 明治時代前半(明治初期~明治20年代)-八幡浜綿業の基礎時代

 明治初期、穴井(あない)村の綿替(めんがえ)商三好徳三郎は先進地の周防(すおう)山口の柳井縞(やないしま)を九州方面に販売していたが、自ら進んで機業を営んで木綿織の有利さを人々に説き、先進地の技術を参考にしながら品質の改良向上に努めた。その結果、九州方面から需要が増大し、宇和木綿の評判が高まり、穴井の港は製品の集荷のため出入りする船舶で大いににぎわったといわれる。
 初期には、機業生産者が綿商人から綿を購入していたが、綿を供給し綿製品を引き取る綿替商が活躍するようになった。その代表が三好徳三郎であり、年間30万反以上の綿布を取り扱うほどであった。しかし、明治13年(1880年)ころより綿に代わってかせ糸を大阪から移入し始めたので綿替はかせ糸交換となった。このため糸を紡ぐ手間と時間が省けるようになったので木綿縞の生産能率が向上し生産額が増大してきた。
 九州方面からの需要の増大に応じて真穴(まあな)・二木生(にきぶ)では木綿縞業、神山(かみやま)・千丈(せんじょう)では絹綿交織・木綿縞や絣の生産業者が増えてきた。生産の形態は自家の屋内や納屋などに高機を数台置き主婦子女を雇って糸紡ぎ、織布に従事させた。いわゆる小規模で初歩的なマニュファクチァ(工場制手工業)による生産形態の始まりであった。
 また、販路は合田(ごうだ)・神山・舌間(したま)の行商人や温泉郡睦月(むづき)島の行商人によって拡大され、五反田縞(ごたんだしま)と呼ばれた八幡浜織物の名声を高めた。当時流行した機織(はたお)り唄(うた)では「……合田のおばさん いりこ売りやめて 今のはやりの縞売りに(⑯)…」と歌われた。この歌には、八幡浜地方における行商の発祥地は舌間であったが、合田の婦人たちが縞売り行商に進出し九州方面まで活躍したことを物語っている。
 特に温泉郡睦月島の行商人は、島挙げて出売り商人として松山・広島・岡山・八幡浜地方で仕入れた絣や縞物を遠く北海道から沖縄、さらに朝鮮・中国にまで販売に活躍した。また、合田・神山・舌間の行商人は、幕末ころより「持ち下り」と称して大阪から呉服類を仕入れ九州東岸地方や高知県の宿毛(すくも)方面に販売し販路を拡大してきた実績があった。一方では、九州佐伯地方の行商人も八幡浜に来て八幡浜の織物を仕入れるようになった。
 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争の戦場が八幡浜から近いこともあって軍需用、民間用ともに需要が急激に増大した。注文に応じきれないほどの好景気となったので、新規の機業者も急増し年産額は20万反に達し宇和木綿の名はますます評判となった(当時の今治の年生産額は40万反)。しかし、西南戦争後には不況が到来した上、機業同業者増加による生産過剰によってダンピングが行われ、さらに全国的に紡績糸による安価な綿織物が出回るようになったため、八幡浜地方の機業者は大きな打撃を受け廃業する業者が続出した。
 このように深刻な苦境の体験を基に、明治19年(1886年)、布行寛・三好徳三郎等が中心となり、各業者の連絡を緊密にして織物の改良、紡績糸の研究、品質の向上を図ることを呼び掛けた。これを母体にして明治22年(1889年)には「織物改良組合」が結成され、同業者のダンピングの防止や工員の技術指導の徹底を図った。
 愛媛新報(大正10年4月27日付)所載の菊池高志の「西宇和郡における産業変遷と其の発達(三)」によれば、明治20年(1887年)における西宇和郡の木綿織り業は戸数1,497、職工2,798人、手織機2,371台に達した。また、西宇和郡穴井浦の婦女子の織り出す縞木綿は一日平均4,000反と報じられた(海南新聞、明治20・11・17付)。

 ウ 明治時代後半(明治20年代~40年代)-八幡浜綿業の近代化時代

 産業の近代化、すなわち日本の産業革命は明治10年代から20年代にかけて、まず紡績業、綿織物業、製糸業など軽工業を中心に展開された。愛媛県においても明治20年代にはマニュファクチァから蒸気機関による機械製糸工場に発展した。
 紡績業もガラ紡(*6)から洋式機械紡績工場へ発展し、明治20年(1887年)には川之石に四国初の紡績工場の宇和紡績会社が設立された(宇和紡績は明治38年〔1905年〕白石紡績となり、明治40年〔1907年〕大阪紡績が買収、大正3年〔1914年〕東洋紡績川之石工場となる)。
 明治29年(1896年)には菊池五平らによって八幡浜紡績株式会社が設立され、新川尻の新工場にそびえる百尺の煙突は当時の八幡浜名物となった(八幡浜紡績は明治39年〔1906年〕渋谷紡績が買収して愛媛紡績となり、大正7年〔1918年〕に近江帆布(おうみはんぷ)に合併され、昭和5年〔1930年〕三瓶町の新工場に移転)。
 この工場では、すでに明治35年(1902年)から男工68人、女工286人が昼夜二交替制をとっており、昼夜交替を告げるため午前5時に鳴る工場の汽笛によって八幡浜の町民は眼を覚ましたといわれる。当時のはやり歌では「……あれは一番もう夜が明ける 明けりゃ八幡浜工場の街(⑯)……」と歌われた。
 綿織物業は明治27年・28年(1894年・1895年)の日清戦争を契機として全国的に好景気となり、八幡浜地方の業者においても急速な発展によって蓄積した資本を基に生産設備の改善を図った。明治31年(1898年)には「バッタン」(高機の紐を引くと抒(ひ)が走る装置でしゃくり機といわれた)機がほとんどの業者に使用されるようになり、明治33年(1900年)には小幅力織機(こはばりきしょっき)(動力織機)が設置され生産設備の近代化が始まった。また、「バッタン」機を改良した菊池式足踏織機(あしふみしょっき)が五反田の菊池市太郎によって考案され普及した。やがて生産技術の向上によって西宇和地方の年生産高は90万反に達した。
 日清戦争後は一度景気が沈滞したが、明治37年(1904年)には不況打開のため西宇和織物同業組合(理事長菊池竹三郎)を設立して業界の団結を図った。明治37年・38年(1904年・1905年)の日露戦争勝利後は再び好景気を迎えて業者の資本力も向上した。
 明治38年、神山村の岡田虎三郎は蒸気機関一台を据え、力織機20台を男工1人、女工20人で使用して縞木綿を生産するようになった。岡田虎三郎は、明治42年(1909年)天神通りの新工場に蒸気機関による広幅力織機を初めて設置して足袋(たび)木綿を製造した。
 八幡浜地方における綿織物業の産業革命の先端を行く岡田虎三郎に刺激されて同業者も次々と力織機を据え付けるようになり、明治時代末期から大正時代にかけて生産設備の近代化が進んだ。その結果、明治39年~41年(1906年~1908年)ころには西宇和郡の年産額が110万反を突破し、愛媛県全体の織物生産額の11.4%を占めるようになった。なお、明治40年の愛媛県統計書によれば、そのころにおける西宇和郡の綿織物生産の特色は、二子(ふたご)その他の縞木綿(県下生産額の50%)、織色木綿(県下生産額の63.3%)などの生産にあった。さらに、明治42年(1909年)には八幡浜地方の共同組織による染色工場の同染工所を設立し同業者の便宜を図るようになった。

 エ 大正時代-八幡浜綿業の発展と海外進出時代

 このようにして八幡浜地方の綿織物業は、従来の手織り生産の段階から脱して資本主義的経営の道を歩みはじめ、海外市場へ進出する基礎をかためた。
 第一次世界大戦(1914年~18年)の勃発は日本の綿業がアジア市場に進出する絶好のチャンスとなった。すなわち、大戦の拡大によりイギリス綿製品のアジア市場への進出がストップしたため日本綿布の輸出が急増した。
 八幡浜地方では大正7年(1918年)より輸出向けの「大正布」を製織し、神戸の一輸出商によって東南アジア方面に輸出した。当時、イギリスのマンチェスター製の「縞リンネル」の需要が高かったので、イギリス製品に似た代用品の「縞三綾(しまみつあや)」を製織して輸出したところ現地で大変な好評を得た。そのため業界は、これを機会として大正布から「縞三綾」の生産に転換し輸出増大に全力を挙げ活況を呈した。しかし大戦後の大正9年(1920年)3月、株式相場の暴落を契機として綿業界も不況に突入したが、八幡浜地方では極力設備の改善、生産能率や品質の改良に努めたので比較的にわずかな被害で切り抜けることができた。

 オ 昭和時代前半(昭和元年~20年)-八幡浜綿業の全盛時代から戦時統制時代

 昭和に入ると昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和4年(1929年)の世界恐慌と内外ともに経済の激変時代を迎えた。しかし、「円」の為替相場が安かったので日本からの輸出が伸び、平常から安い綿製品はアジアをはじめアフリカ・ヨーロッパ・中南米方面まで進出した。これらの地域でも「縞三綾」が歓迎されたので八幡浜地方の業者の八割が縞三綾の生産に転換し、主として東南アジア方面の輸出に全力を尽くした(図表4-1-5参照)。
 ところが、輸出好調の「縞三綾」は織りやすく、利潤も多かったので全国の中小機業者が競って生産するようになり、やがて生産過剰によるダンピングと品質の低下を招き販売不振となった。そのため政府は、輸出縞綿布工業改善委員会を設置し、昭和5年(1930年)より「縞三綾」の生産と販売の統制を行った。八幡浜地方においても翌昭和6年6月、従来の「八幡浜織物同業組合」を「八幡浜織物工業組合」に改組し、中央の方針に従って統制を行った。理事長には岡田虎三郎が就任したが、同氏は翌年倒産により廃業したので酒井宗太郎が就任し業界の指導と取りまとめに当たった。しかし、酒井宗太郎は昭和10年(1935年)11月、病没したため父の酒井六十郎が就任し、その後は酒井六十郎の五男の酒井頼一(らいいち)が理事長の任に当たった。
 このころ八幡浜織物同業組合が、中央から詩人松本英一を招き、新民謡「三崎想(おも)えば」「糸くり音頭」を作詞させ、レコードに吹き込み盛んに宣伝した。

            新民謡「糸くり音頭」
   「五反田耕す 腕じゃないけれど 三十五反は ソレ唄で織る 巾も実意も あるお方
    カッタン コトリト コロリトナ クリダセ オリダセ ヨーイトナ(⑭)」

 昭和12年(1937年)7月、日中戦争が勃発すると産業界は軍需産業重点となり綿業はじめ平和的産業は圧縮され強い統制を受けるようになった。さらに国内の綿花の消費を抑制するため綿とスフ(人造繊維)の混用などが強制された。一方では軍事政策(南進政策)と軍備資金確保のため、綿織物の輸出が奨励され、縞三綾・ギンガム・サロンなどが大量に輸出された結果、図表4-1-5のように昭和13年(1938年)には史上最高の生産高に達した。
 昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まると綿花の輸入が困難となり中小企業の統制が強化された。昭和17年(1942年)、南予地方全体を統合して「南予織物組合」(理事長・酒井頼一)が設立され、株式会社3と小組合(小企業の組合)3でもって運営することとなった。さらに、翌昭和18年(1943年)には戦力増強企業整備要領により転廃業者を募集したため、28工場のうち16工場、広幅織機台3,407台のうち1,750台、小幅鉄製織機174台のうち130台、半木89台のうち63台が転廃した。戦局が緊迫した昭和19年(1944年)には従来の県下の全ての織物組合を解散し、全県的な統制組合の「愛媛県織物製造加工統制組合」が設立され八幡浜市浜田町に出張所が置かれた。同年酒六八幡浜工場は海軍の要請で広海軍第11航空廠(しょう)工場に転換して軍需工場となったが、昭和20年(1945年)8月、緊迫した情勢の中で敗戦を迎えた。


*6 明治10年(1877年)、長野県の臥雲辰致(がうんたつち)が発明した水車利用の紡績機で、その騒音からガラ紡といわれ
  た。

図表4-1-5 八幡浜地方の綿織物生産高表

図表4-1-5 八幡浜地方の綿織物生産高表

「八幡浜織物史資料(⑭)」P32より作成。