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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)機業家酒井六十郎の歩みと姿

 明治時代から昭和時代前半にかけて八幡浜地方における綿織物業の発展と変遷の大筋を展望してきたが、戦前はもちろんのこと、戦後における綿織物業の盛衰もまた、「酒六」を主軸として展開されてきた。八幡浜地方のみならず南予の綿織物業における酒六が果たしてきた役割は大きい。
 まず酒六の創業者であるとともに「機業の創業企業家として輸出綿布業界の先駆者として、はたまた製糸染色の開拓者(⑬)」(昭和32年3月、酒井六十郎翁胸像除幕式の野本吉兵衛市長の式辞より)として地域に尽くした酒井六十郎の歩みと足跡を述べる。

 ア 酒井六十郎の生い立ちと機業のスタート

 酒井六十郎は明治元年(1868年)8月25日、西宇和郡神山村大字矢野町(現八幡浜市古町)の酒井久六、テル子の次男としてこの世に生をうけた。「酒井六十郎翁小伝(⑬)」によれば酒井六十郎は、性来口数の少ない温和な人柄で、人と事を構えるということはなく、友人に対しても親切で別け隔てのない交遊ぶりであったといわれる。
 六十郎少年は「将来機業で身を立てたい。(⑬)」新興の機業こそ自らを伸ばす新天地であろう、と決意して一機屋(はたや)に見習工として入った。六十郎が育った時代は、(2)のイで述べたように、ちょうど八幡浜地方において機業が台頭し始めた時であり、育った地域も「五反田縞」で名の通った織物の主産地という環境であった。
 六十郎は刻苦精励すること数年をへた明治21年(1888年)、二宮タツと結婚するとともに宿願の一機屋を起こした。決意堅くスタートしたものの機業は夫婦二人の零細企業であり、最初の出資額は20円、うち12円は六十郎、8円はタツの拠出であり、粒粒辛苦して蓄えた汗の結晶であった(当時の米価一升が4・5銭)。
 機業の実態は、六十郎が染色から製織までの準備一切と販売、タツが整経製織を担当し、文字通り二人三脚による睡眠時間4・5時間という働きぶりであった。後「酒六」社長になった四男の酒井繁一郎は、両親の奮励ぶりについて次のように語っている。
 「こうして母は夜なべを、父は早暁より仕事に懸命精を出した。当時の私の方の仕事は全く家内工業的であった。そして仕事は雇人の二倍も夫婦して能率をあげ、機をへり(へるとは整経をすること)早川式足踏織機でまた布を織り、ピンからキリまで母の手でやりあげる。父は糸を染め製織するまでの準備行為を一手に引き受けて母に渡す、かくして織物が完成するとこれまた父自ら販売に従事した。何の事はない、この夫婦は主人であり、主婦であり、職工であり、女工であり、店員であり今偉大なる父であり母であった。(⑬)」
 また、菊田英吉氏は、六十郎の旺盛な研究心について「自家製品の堅牢度(けんろうど)を試らべるために、染色の変更毎に必ず製品の端切(はぎ)れに月日を記載した上、一定期間風雨に曝(さら)し何日にはどれだけという実験済みのものを保存して、自信、自恃(じじ)(自分自分をたのみとすること)、自任の商売をやられていた。(⑬)」と語っている。
 このように六十郎は生産、研究、販売全てにわたって熱心に打ち込んだので、地元の南予地方をはじめ九州方面にまで「酒井縞」の名を高めていった。その結果、明治21年(1888年)に創業してから15年余を経た明治36・7年ころには、工場と家屋敷まで自力で所有するまでになった。この時期は日清戦争から日露戦争前後に当たり、(2)のウで述べたように八幡浜地方においても機業界は好景気で活況を呈し大飛躍を遂げた時代であった。酒井六十郎の事業もまた着実に基礎を築いた時期であり、明治39年(1906年)には男工4人、女工14人計18人の従業員を雇用する酒井織布工場に成長した。

 イ 家庭の酒井六十郎~子宝に恵まれる

 六十郎は明治22年(1889年)長男宗太郎、明治29年(1896年)三男静市(酒本家を継ぐ)、明治31年(1898年)四男繁一郎、明治33年(1900年)五男頼一など出生と8人(うち2人はよう折)の子宝に恵まれた。
 四男繁一郎の思い出によれば、両親共に大変子煩悩(こぼんのう)で、食事でも子供たちを先に膳につかせ、まずうまいものを先に子供たちに食べさせていたという。また「父は極めて自分が苦労したとか努力したとかいうことを話すことを絶対に嫌っていた。従って我々は如何なる苦労難難(かんなん)をし、如何なる努力をしたかということは一言半句も父から聞いた事はなかった。(⑬)」という態度であった。
 六十郎は、大正14年(1925年)に妻タツを63歳で失ったが、「父はその性格をガラリと変え、母亡き後は母の分も一緒にしたような性格になってしまった。ある時は母の如く、ある時は父の如くなる慈父であった。只(ただ)、私達が今日あるには叱らざる父、子供第一主義、子供、子供できたスパルタ教育とまるで正反対な教育、寛大も度の越えた慈愛心、その結果が却(かえ)って厳格な行き方よりも効果的な実を結んだのだと思う。(⑬)」また、「父は、こういう事をやってくれ、こんな仕事をやって俺(おれ)を喜ばせろ、必ずこの位になってくれ、なんていう希望的な事柄は我々には言わなかった。(⑬)」とさまざまな思い出を通して家庭における事業家酒井六十郎の幅広い人間性を語っている。