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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)新たな吟醸酒造りを目指して-戦後の杜氏の生活

 **さん(伊方町大浜(おおはま) 昭和4年生まれ 64歳)西宇和郡杜氏組合長
 **さん(伊方町中浦(なかうら) 昭和3年生まれ 65歳)  同  副組合長

 ア 修業時代から現在までの酒造りの変遷

 (ア)蔵入りから現在まで

 **「伊方農業学校をでて海軍に志願しまして、1年間山口県の通信学校におりましたが、終戦となってこちらに帰って来たのが17の時です。当時、農作物のほとんどは供出を余儀なくされ、長男として何とか現金収入を得たい、作物の食い延ばしをはかりたいとの思いが強かったところ、親戚の口ききで蔵に出れるようになり、希望に胸を膨らませて酒造所の門をくぐりましたんです。最初の蔵は高知県宿毛の兵頭酒造(現東洋城酒造)でした。昭和21年の新正月からでした。その後、尊敬する宮崎市右ェ門さんのもとで、壬生川(現東予市)の武田酒造で数年働き、昭和28年から西条の大鏡酒造で頭を務め、昭和32年から現在までの35年間、杜氏として武田酒造にお世話になっております。武田酒造の社長には3代に渡って仕えたことになります。」
 **「わたしの家は祖父・父・私と三代、百年にわたって杜氏を務めており、伊方という地域の特殊性によって生まれ、時代と共に歩んできた酒造労働の姿が、そのまま家の歴史と重なり、常日頃興味深く感じております。高等小学校をでた15歳から、防空監視所の職員だった2年間を除き8年間、小田町(上浮穴郡)の竹内酒造に行き、八幡浜市の飛馬酒造・西条の大鏡酒造を経て、昭和31年に杜氏となりました。杜氏としてのふりだしは、宮崎県の山口本店で、その後香川県宇多津の勇心酒造に6年間お世話になりました。伊方杜氏としては、初めての香川県進出でした。当時は、まだ『香西(こうざい)杜氏組合』があり、香西や(本県越智郡の)宮窪の杜氏が香川の酒造業の中心でしたが、今は本州の方からだいぶ来ておるようです。八幡浜の飛馬酒造を間にはさんで、昭和41年から現在の鎌田酒造(香川県坂出市)に勤めております。」

 (イ)戦後の酒造工程の移り変わり

 「蔵に入ったばかりの頃は、まだまだ昔ながらの作業でした。桶もほとんどが木製でした。蔵に入ってすぐの昭和22・3年頃から、アルコール添加等の技術が全国的に普及し、ホーロータンクが中心となっていったんです。また速醸酛に最初から純粋培養酵母を蒸米・水・麴と一緒に入れて、酛造りをなしにする『酵母仕込み』が全国に普及したのも戦後の23年からですな。醸造協会を通じて頒布されるその培養酵母に、全国の酒屋が取り組み始めた時に起こったのが23年の全国的『大腐造』じゃったわけです。しかし今では、培養酵母なしの酒造りというのは考えられません。
 高知に初めて蔵人として行った時には、『酒槽(さけふね)』は天秤式でしたが、3年後移った東予市の武田酒造では、油圧式が使われており、何とも便利なもんじゃと驚いた覚えがあります。製麴(せいきく)機、米洗い機、蒸米機、冷却機、濾過器と、作業工程が次々と機械化・合理化されていったのが昭和30~40年代で、昔の午前0時や2時に起きて作業した時代とは雲泥の差です。今の作業時間は、朝6時から晩6時までで、午後12時から3時までは完全な自由時間にしております。ただ、昔に比べ仕事量・労働時間は大幅に減っておりますが、大型化した一方で人手不足で合理化が進み過ぎているため、ミスが許されず、機械に追い回されるような形で、1人あたりの責任とノルマがきつくなってきて、気を抜く暇がありませんな。精神的負担は今の方が大きいです。」

 (ウ)消費者の嗜好の変化と酒造り

 「戦後の日本酒の流れとして、大きく三つの時期に分かれると言えますかなあ。昭和20年代・30年代の時期は、酒と名がついたら売れたもので、アルコール添加の技術をしっかりと身に付けて、限られた原料の中でいかにアルコールをだすか、少々の割水でも十分に飲めるような『こく』をだすかということが、杜氏に求められた時代でした。またそのような酒がいい酒じゃったわけです。
 昭和30年代の後半から40年代にかけては、とにかく灘等の大手メーカーの、癖のない均質な甘口の酒が高級とされた時代です。地元業者も酒造量のほとんどは、『未納税』(醸造したらそのまま大手メーカーに半製品のまま納めることで、大手業者はこれらの酒をブレンドし均質化して、自社の製品として販売する。製品販売にかかる蔵出し税がつかないため、このように言う。)で、桶単位の取り引きで大手メーカーに卸しておりました。この時期は、灘のメーカーの味にいかに近付けるかというのが、杜氏の腕の見せ所でした。逆に言えば、あまり個性のある癖のある酒は好まれなかったということです。
 それが、昭和50年頃から日本酒離れということがいわれだして消費量が減少し、『未納税』分についても大手から契約を打ち切られることが多くなり、それに頼ってばかりはいられなくなりました。一方で、生活が豊かになりグルメブームということで、吟醸酒(*1)、純米酒等(*2)の高級酒がもてはやされることとなり、その中から、昨今の地酒ブームも生まれてきたんじゃろうと思います。そこで、我々としても、大手に造れない、手間暇かけた個性的な製品を造りたいという気持ちから、現在、様々な形で、新しい酒造りに取り組んでおるわけです。また、借金をしてまで新しいことに取り組む気持ちはないが、先祖伝来ののれんは消したくないということで、規模を縮小して細々とやっている消極的な経営者と、自分たちの独自の製品をアピールしていこうという積極的な経営者とがはっきりわかれてきましたですね。」

 イ 吟醸酒造りへの新しい試み

 「最近の高級酒志向、地酒ブームの中で、我々も個性ある吟醸酒・純米酒造りをはかっています。しかし、純米酒にしても、しばらく遠ざかっていただけに、発酵のしかたも違い、またアル添酒と違って後の味を調整し手直しするようなことはできんので、本当に気を使います。吟醸酒等では、杜氏はもちろん、蔵人全体の高度な技術が必要です。品評会用や高級品として、50%も削ってもらった高精白米を使っていい酒ができない時は、会社に与える損も大きく、これほどつらいことはない。また、ひとりよがりの満足でなく、市場におけるニーズに合わせてアピールできる個性を持ち、利益を上げるだけのコストを十分考えておかないといけない。責任者としての杜氏の心配は、普通酒の比ではないですな。
 最近は、自分で『金賞症候群』と言うとんですが、品評会用の吟醸酒造りに、各地方の杜氏さんが一生懸命です。昔から最大の名誉ではあったんですが、特に最近の地酒ブームで、品評会で金賞を取ると全国に酒の名が知られ付加価値が何十倍にもなりますんで、品評会用の特別の米や酵母を使ってタンクも別にし、吟醸酒造りに必死です。思い通りに賞が取れた時の、誰にも言えん胸の中でかみしめる喜びは格別ですが、自信を持っていながら落ちた時のダメージも、またはかりしれんもんがあります(ちなみに、**氏、**氏とも『全国新酒鑑評会』で金賞を何度も受賞している)。
 水は、私の所では2kmほど離れた井戸水をパイプで引いてきています。東予市や西条市のように打ち抜きでいい水が出るところもあり、その点はうらやましいです。お茶を飲んでうまいのがいい水です。西宇和郡近辺では『硬水(こうすい)』(カルシウム塩マグネシウム塩が比較的多い水)が多いです。灘の有名な『宮水(みやみず)』は『硬水』ですがややごつごつした辛口の酒になり、『軟水(なんすい)』はおだやかな発酵で口当たりのええ酒になります。その土地土地の水によって、酒の違いもでてくるわけです。毎年必ず成分検査に出して、認証ももらい水質を確かめております。米は、一般米が当たり前やったんですが、昭和30年代から酒米を使うことが多くなりました。酒米は大粒・心白(しんぱく)(芯が白い=蛋白質が少なく澱粉が多い)で粘りのある米ですが、播州米がいいとされています。播州米山田錦(ばんしゅうまいやまだにしき)の品種を手に入れようとして県の方にも頼むんですがなかなか入って来ない。そこで、私が提案して、うちの酒造所で5年前から、香川県の農業試験場を通じて種モミを手に入れ、近くの意欲的な農業グループに頼んで、契約米として作ってもらってます。単価はいいので喜んでもらってますが、すぐ倒状するので手間はかかるようです。また今年(平成4年)の10月に『西宇和郡杜氏組合』を『西宇和郡杜氏協同組合』とし法人化しましたが、この機会に(これまで日本醸造協会等に頼っていた)純粋酵母培養を組合でやることになっており、その実現・供給によって、より味のいい特色のある酒造りが出来るのではないかと思っています。とにかく、吟醸酒を中心とした、時代に対応した新しい酒造りに、今も様々に工夫し考える毎日です。」

 ウ 酒造りに対する思い

 (ア)酒造家と杜氏

 「うちの酒屋は、10数年前から月給制を取り入れたんですが、いまだに『皆造』を終えて帰るときにまとめて渡す蔵が半分位は占めるように聞いております。昔からの慣習であるのと、杜氏からしたらどんな酒ができるかもわからんのにという思いがあり、酒屋としてもその年の出来栄えを見てという気持ちがあるからでしょう。住み込みで宿と食事を出してもらっておるということもあります。しかし、蔵の一室で採光の悪い宿舎などの改善も含め、現在の絶対的な後継者不足を解消し、若い人を集めることの出来る職場にするためにも、そのような古い慣行を現代に合うようにしていくのは、緊急の課題となっとります。経営者や行政の人達はまだあまり危機感が切実でないようですが、今のわたしらでさえ60歳代で、50以下の者は蔵人を含めて片手で数えられるような状態では、あと十数年もすれば、この伝統的な酒造技術が途絶えてしまいます。日本酒造杜氏組合連合会等での必死の呼びかけもしているんですが、本当に残そうと思うのなら、今後、経営者や行政の人々を通じて抜本的な改善が必要でしょう。
 そうは言っても、わたしも一つの蔵に35年、3代にわたって社長さんにお仕えしてきました。蔵としての経営状態も手に取るように知っており、今の社長の弟さんが結婚するとき媒酌人をやってくれという話までありました。これは、多かれ少なかれどの蔵にもあることで、最近のような杜氏不足で長いこと同じ蔵に行っておると、経営者の家族同様となり、義理人情にしばられて、なかなか強いことが言えんようになります。蔵人の賃金交渉も全て杜氏の責任ですから、板挾みのような状態によくなるわけです。後継者難ですから、本当は強い立場にあるんですが。まるでとりもち桶の中に足を突っ込んだような状態ですわ。」

 (イ)酒造りへの思い

 「伊方町の今日のミカン作りの発展を背景で支えたのも、やはり杜氏じゃないでしょうか。杜氏としての収入と後の失業保険のお金で、(昭和22・3年頃には)わたしらも八幡浜に苗木を買いに行きましたけんな。半島の村々は貧しいですけん、ミカンが金になるとわかっとっても、成木まで数年間資金を寝かすことは、普通に生活しとったんではできませんでしたからな。伊方で、戦後早くから柑橘栽培が発展したのは、それなりに理由があるんです。
 ただミカンが農業の中心になると、取り入れが酒屋出稼ぎと重なるのがつらいところでした。共同出荷の期限があるので、残った者だけではできかねましたし。家の者にとっても、家業をほったらかしてという気持ちがあったようです。やはり、半年近い別居生活ですから、出る者、残る者、それぞれちぐはぐな面が出てきます。わたしも何か書類を書く時に、職業欄には農業と書く。酒屋勤めはあくまでも出稼ぎです。しかし、前年どんなに嫌なことがあってもう止めたと思っても、やはり秋になり蔵入りの時期が近づくと血が騒ぐんですなあ。そこらあたりの気持ちの昂ぶりというのは、妻子供にはなかなか理解してもらえません。
 男ばかりの共同生活ですから、1・2月の酒造りの最盛期になると皆いらいらしてきます。ましてや、近年の人手不足と新しい吟醸造りの取り組みの難しさの中で、一人当たりの負担は過重となり、酒造りと人の統率両面で難しいことばかりです。蔵人との給与の差は昔ほどなくなり、一方で全責任は昔ながらに杜氏にかかってくる。お金ほどには報われておりません。もう嫌じゃと思うこともあります。
 以前俳優の菅原文太さんが、映画作りの参考のために取材に来られたことがあるんですが、その時も同じような話をしました。話の最後に彼から、『おやじさん、そんな苦労をしてまで何で酒造りをやるんですか。』と言われたことがあります。その時も、返答にはたと困りました。ただ、何かとりつかれるものがあるんですな。毎年、米の出来や気候やちょっとした工夫によって違った酒になる。どんな酒になるかわからないその神秘性、その年で一番最初の上槽(搾り)の時に、桶にでてくる新酒をなめる時の不安と期待の気持ちなのか。『皆造』となって暇ごいをして蔵を出る時の、あの解放感と充実感なのか。そこら辺りは、十分言葉にできんところがあるんです。とにかく、秋になると今年はこんなこともしてみよう、あんなこともしてみようと、行く前から酒造りのことで頭が一杯になります。わたしらも60歳を過ぎて、普通なら定年退職の年齢なんですが、酒造りばかりは、毎年毎年1年生としてのスタートです。まあ、身体が十分きかなくなるまで、酒造りをしていくんでしょうし、続けていきたいと思っております。」


*1 吟醸酒:精米歩合60%以下の、白米、米麴、水及び醸造用アルコールを原料とし、吟味して製造した清酒で、固有の香
  味及び色沢が良好なもの。本来は品評会を目的として発達し、デリシャスリンゴの香りがするものが最も良いとされる。
*2 純米酒:醸造用アルコールを使用せず、米・米麴だけを原料として造ったもの。精米歩合70%以下のもの。

写真4-2-11 絞り中の酒槽

写真4-2-11 絞り中の酒槽

宇和町 宇都宮酒造。平成5年1月撮影