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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 本来の祭りの姿とは…(時代とともに変わる祭り)

松本
 大島の位置が、二つをくくるその前の形として今日まで通じているというようなお話でした。
 次に、祭りの変化ということに入ります前に、祭りとはいったい何なんだろうか、というような素朴な、また、非常に基本的な問いかけがあります。実は私は、宗教学を専攻しておりませんし、また、民俗学を専攻しているわけでもありませんので、非常に不確かなお話になるかとも思いますけれども、まあ、こちらへ来る機会にいろいろな文献に目を通しました。どうも、祭りということを考える場合に、いくつかの特徴があがりそうですね。
 一つは、やはり神を迎えるということ、それから神と人とが互いに交流し合うということ、それから神を送り出すということ、そういうような事柄が辞典の意味なんですね。それを実際に一つ一つの祭りの中に持ち込んでいきますと、どんなもんだろうかということになりますけれども、ここで、そういう祭りとは何なのかということを、私は、辞典の意味以上にさらに解説することはできませんけれども、私たちの学問領域からしますと、祭りというものを、やはり神と人との交流の場所であるというように考えます。神を迎え入れるためには身を清めなければならないというつまり、神事の前の事柄があります。それから、神を迎え入れる場所は、神社、神の社、それは仮の住まいでありますけれども、その仮の住まいに神を迎え入れて、そこで、氏子たちが神に喜び楽しんでもらうためのさまざまな行事を行います。そして、神が領内を巡行するその途中が御旅所であり、新居浜でしたら船御幸(ふなみゆき)ということになるんでしょうか。そういうことになり、領内の平和、あるいは安全、あるいは豊かさ、そういうものを見回ってまた、神の社に帰ってくる。それからさらに、私たちは、その神と人との交流の中に、こういった太鼓台とか、あるいはだんじりとか、もちろん御輿によって神が巡行しますけれども、太鼓台とか、だんじりとか、あるいはその他のさまざまなはやしを用意しながら、神を迎え入れる、こういうように考えられるかと思います。家ではごちそうをし、そして地域ではそういう催しをして、神がひとときの滞在をそこで楽しく過ごしていただく、そして、来年まで地域の平和を神に願うということになるのかと思います。
 これに付随しまして、付随というのはちょっと言葉が適当でないかもしれませんけれども、神と人のいわば交流の中に、その地域の人々の共同のまとまりが必然的にでてきます。一年間の働きの中で、それぞれ皆さんばらばらなかたちで働いてきた、あるいは、生活をばらばらな形でしている。で、その中には、さまざまな利害の違いもありましょうし、感情の衝突もありましょう。けれども、この祭りというその場を利用して、今までのそうしたものを全部脱ぎ捨てて、そして一まとまりになっていく、というような事柄が祭りの中の必然的な特徴として、上がってくるようです。
 さらに祭りというのは、私たちの理解では、遊びである。けっして、朝6時、7時に起き、そして、仕事に行って夕方帰ってくる、そういった働く日の出来事ではない。そういうものから離れた、遊びの場所である。ですから、日常とは違うような事柄が繰り広げられるということが、その中に行われます。それとも、一人の遊びではなくして、みんなの、一緒に楽しむ、そういう遊びである。このような理解が共通に、祭りに関してはできるかと思います。もちろん、その事柄が、いろいろな過程の中で変わってきておりますけども、普通、祭りとは何でしょうか、というふうに尋ねられた場合にはこんな答えしか用意できません。ほかの方々に、お尋ねしましても似たようなことになると思います。
 この祭りを、たとえば研究していく、あるいは勉強していくということは、私たちが住んでいる地域の社会とか文化の中でどういう意味を持つんだろうか。あるいは、広くは、日本の社会、あるいは日本の文化の中でどういう意味を持つんだろうかというような問題が当然のことながら出てきます。これを解かなければ、いろいろな興味が、どうしても壁にぶつかってくるかと思います。で、そのあとの事柄に至ります前に、新居浜のお祭りに関してでもそうでありましょうし、日本全体のことにつきましても、祭りが大きく変わってきていると思います。
 私たちは、現在祭りを見る場合には、祭りが変わってきているというところに、目の付け所を置こうとしております。そういうこともありますので、祭りの変わってきている有様を、佐藤さんに続けてお尋ねしたいと思います。
 新居浜にしても、西条にしても、あるいはその前の大島にしましても、やはり、変わってきていると思いますけども、それにつきましては、いかがでしょうか。

佐藤
 はい。今出ましたように、神様と人との交流というものが、そもそものお祭りの原点であったと思いますが、だんだん神様のいない祭りへ変わっていってるんじゃないでしょうか。これが一番大きいところだろうと思います。それともう一つ、神様との交流でありながら遊びであるということを、さっき言われたと思うんです。これが、太鼓台やだんじりの一番大きいとこだろうと思います。太鼓台やだんじりについて後半でも述べられる門田先生が、「大きな大人のおもちゃである。」いうことをおっしゃっているんですけども、大人が遊ぶあのくらい大きなおもちゃはないんだろうと思います。その遊びという要因があってこそ、もちろん神様をただ拝むだけであったら、何にもあんなものはいらないので、遊びの要因がものすごく大きかったと思うんです。それから、人々の共同のまとまりとして、1年間にいっぺんだけそういった遊べるハレの日というのがあったという、これが昔の祭りであったと思うんです。今みたいにテレビがあって、野球に行こうと、音楽会に行こうと、いろんなところにハレの舞台、ハレの場というのが出てくるんですが、昔はそうではなくて、普段は質素な生活をしていて、その中で、お祭りというのは本当に一番のハレの日であった。だからこそ、神様との交流があり、その中であれだけ大きな遊びができたんだろと思うんですが、そのあたりの現代人の感覚いうのが違ってきたんだろなあと思います。
 それと、大島なんかの例を見ると、今全国的にも過疎的な問題というか、太鼓台とかだんじりとかを運行できる若い人というのがものすごく減っています。しかも、お祭りの日が昔は別々だったのに、今は市内全部いっしょの日になっていますから、大島のお祭りの日に本来もんてくるべき若(わか)い衆(し)は、「どっちかいうたら市内の太鼓台の方がええいうて、行ってしまうんじゃ。」みたいな話もちらっと聞きました。そういった点で、大島の場合なんかは、古いものが確かに残っているんですけれども、逆にだんだんすたれつつある、非常に危ない状態じゃないかと思います。
 逆に、市内であるとか、都市のお祭りというのは、派手に派手になっていきます。派手に派手になってくると、昔からの古いものが失われる反面、そこに、新しいものが出てきますから、むしろいい点があり、よりいいところを目指すんですけれども、たとえば大型化の問題、これも新居浜の古いやつなんかを見ると、現実に今の子供太鼓台くらいの大きさの太鼓が、大人太鼓だったようです。それが、少しづつ少しづつ、作り替えるごとに、「隣の太鼓よりも大きな太鼓にせい。」のくり返しだろうと思うんですけれども。目に見えん感じで、ずっと明治、大正、昭和と、だんだん、だんだん大きくなってきた。そうした大型化の中での問題点というのも、いろいろ出てきたんじゃないかと思います。それから、太鼓台が非常に華麗にはなってきました。華麗になったというよりも、べ夕金一色になってきたわけなんです。より厚みのあるもの、より金ピカなものを好んだけれども、逆に、香川県とかいろいろな所に残っている新居浜の古いもの(明治時代のもの、大正時代のもの)を見てみると、細工なんかの点についていうと、昔の古いものの方が、やっぱり文化財的な価値のありそうな、緻密(ちみつ)なものなんかも残っている。
 それから、観光化の問題。神様事へ出すだけでするんだったら、何にもあんな立派なものを出さなくてもいいわけであって、人に見せて、自分ところの太鼓台はすごいというのを見せるという、これは本来の意味なんですけれども、これが、大規模に観光化した場合の問題というと、これも、果たして、自分等太鼓台やりよる人間のための祭りなんか、見せる方が主なんか、という問題も、出てくるんじゃないかと思います。いろいろと祭りの変動というのは、問題点も含みながら出てきているんだろうと思います。

松本
 今、佐藤さんの方から、大島のお祭り自体がそれを支える基盤を次第に失ってきているというようなお話がございました。それからさらに、新居浜の太鼓台のお祭りに関しまして、一昔前に比べますと、全般的に大型化し非常に華やかになって、そして観光化、人に見せる祭りという形に変わったのではなかろうか。そういう変わり方の中に、さまざまな新たな問題が出てきて、それに対する処理をしなければならない。こういった事柄があるように伺いましたけれども。関連しまして、西条の祭りはどうでしょう。

佐藤
 そうですねえ。西条の場合は、ものすごく台数が増えたということがあるんです。これはやっぱり、自分たちのだんじりにしたいという意識が非常に強かったんだろうと思います。自分が参加する祭りになりたいというのは強い願望だったと思うんですけれども、その結果、各町ともだんじりを持つ。そうすると場所的な問題、例えば神社の境内なんかはものすごく狭くなって置く場所がなくなったり、時間的な問題、今、伊曽乃神社でだんじりが80台余りあるんですけれども、まともに1分ずつ動くとしても80分は動き続けるということで、見る者にとっては、「どれ見ても同じじゃないか。同じもんが80も来て次々来て、全部同じじゃが。」みたいな感じで、結局観光客の人はそういう意識なんでしょう。やりよる者は、「自分がしよんじゃけん、それがええがあ。」みたいな感じがありまして。西条祭りでは、そのほかに数が多くなれば、つく人間も、地元では抑えられない人々もいっぱいでてきます。そうすると、未成年者のお酒の問題とか、暴力問題とか、いろんな問題がそれに加わってくる、そういう感じですねえ。

松本
 さらに、宇摩郡の方に行けば、新居浜以上に大型化し、あるいは華麗化しているというような情報も入っておりまして、祭りの一つの印としての太鼓台にしましても、大きく変わりつつあるというようなことであったかと思います。さらに、祭という言葉の理解の仕方が非常に変わってきているということもいえるかと思います。先ほど、祭りのいわば辞典的な理解をちょっと申し上げましたけれども、神の祭り、神と人の祭り、あるいは仏と人の祭り、それ以外の森羅万象にかかわるような人との祭り、そういうものが神としてあるいは仏として、人々の中に入ってくる中に、祭りが作り出された。季節的に作り出された。こういうことであろうかと思いますけれども、そこの部分が大きく変わっております。
 私たちの友人の中に、祭りは大きく次のような形で語られているのではないかというような言い方をします。例えば、昔は家の祭りということでかまどの祭りがありました。今は、例えば、御夫婦の結婚記念日は家族の祭りである。あるいは子たちの誕生日は家族の祭りである。こういうような言い方をしますし、また、そういうように受け取られもします。それから、地域の祭りにつきましては、今はおもに伝統的な地域の祭りのことをさして、話題にしておりますけれども、それに限りませず、新しく作り出される祭もあります。あるいは、職場には創業の祭りということもありましょうし、運動会の祭り、スポーツをそれぞれやる場合にも、それがなんらかの意味を付けて祭りであるというような言い方をしています。それらの日本語としてすべて祭りという言葉を付けて、祭りとして受け止めていくということになっていきますと、非常に祭りというものが変わっているということと同時に、よくわからなくなってきたということになろうかと思います。つまり、神と人とのつながりの部分が薄まってしまって、人と人とが集合する、そういう部分が大きくなり、そしてさらに、祭りの中身に遊びの部分が急に大きくなってくる。まあ、都市の生活は、半ば遊びが毎日毎日あるようなことかと思いますけれども、そんなこともいえるかと思います。要するに、祭りが非常に多様な形で今語られ、そして、多様な言葉の中で、それが指し示されているというようなことであろうかと思います。
 こんな言い方が、私たちの間にあります。祭りを研究するということは、地域の社会とか地域の文化をとらえていく糸口である。さらに、祭りを研究するということは日本社会を、あるいは日本の文化を明らかにしていく糸口である。この言い方は、半ば肯定できますけれども、やはり、仮定の部分があるというように考えたほうがよろしいかと思います。
 たとえば、どこの市町村もそうだろうと思いますけれども、市史、町史、村史というものが日本中どこの町村でも作られてきました。戦後、30年代、40年代におきまして、もう全国一斉といっていいほど、それぞれの場所で、それぞれの立場の人が、それを書き綴(つづ)ってきました。その一つ一つは大きな成果ではありましたけれども、その成果を寄せ集めたからといって、日本の事(こと)がわかるわけではない、日本全体の事(こと)がわかるわけではない。しかし、もしそれがなければ、日本の事(こと)はさらにわからない。こんなようなことだろうと思います。
 祭りの一つ一つの興味、あるいは祭りの一つ一つの研究をすれば、地方が分かり、日本が分かるとは、私は思わない。けれども、それがなければさらに分からない。と、そういうように考えるべきではないかと思います。そういう意味で、今、祭りという言葉が以前と変わってきているという理解の中で、さらに研究を進めていく、その結果が、日本の社会と文化を解明していくための、一つの仮定として考えられる、ということになろうかと思います。