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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 祭りスタイルの移り変わり

 新居浜の経済は、別子銅山の栄光とともに推移してきた。祭りの生い立ち・発展は、旧幕時代(1690年ころ)に発見された銅山の開鉱とその発展に伴う重工業、関連の商業、土着住民の農業・漁業という構造と、切り離して考えることはできない。
 その一例が、一宮神社の拝殿前の常夜灯に見られる。左は正徳2年(1712年)に、右は宝永元年(1740年)に別子銅山の経営者4人により、それぞれ寄進されたことが記されており、銅山とともに祭りが栄えたことがわかる。
 船御幸は、亨保年間(1730年ころ)に始まり、また、嘉永年間(1850年ころ)から1900年にかけて御輿太鼓と現在の太鼓台の併用が見られる。
 別子銅山の発展に伴い、惣開・四阪島へ移転するとともに、旧新居浜市内でも工場労働者が増え、経済的なゆとりからか、新居浜裏手、東町、西町、中須賀、西原、金子村、久保田、江口新田の8台の太鼓台が新調された(明治42年、一宮神社資料より)。当時の価格で1台1,000円くらいという記録もある。自分の商売柄当時の米の価格と比較すると、明治40年ころ米1俵(60kg)の価格が約5円であり、米200俵に相当する。現在米1俵の価格は約2,500円なので、太鼓台1台が500万円ということになる。1月にシンガポールへ行った久保田太鼓台が、現地紙に60万ドル(約5,000万円)と紹介され、大変驚異的な価格で羨望(せんぼう)の目で見られた。10倍の開きはあるが、諸情勢の推移も考慮すると、どちらが価値が高いかということは判断しかねるので、賢察願いたい。
 年月を経るに従い、大型化・肥大化してきた。戦時中は、太鼓台が出ていないが、昭和23年からは全太鼓台が出るようになり、天皇陛下をお迎えして、14台の太鼓台が勢ぞろいしたことは、記憶されている方も多いと思う。こうして、現在とほぼ同様の運行形態に落ち着いてきた。