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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

2 「海賊の島、遊女の港」~塩と輸送のエキスパート~

村上
 どうもありがとうございました。先生の生い立ち、これは本当に私どもの参考になるのではないかと思います。あるいは御覧になられた方もあるかと思いますが、実は、かなり前になりますけれども、『愛媛県史だより(9)』の中にも、今のようなお話は紹介されております。
 それで、今日のテーマは「来島海峡と今治のくらし」ということなんですが、私は以前、「海賊の島、遊女の港」なんていうふうなテーマの先生の御講演を拝聴したことがあります。先生が御研究なされまして、たとえば来島海峡に、海賊がいつごろ登場するわけなんでございましょうか。

渡辺
 瀬戸内海の歴史というものを集約して見てみますと、まさに「海賊の島、遊女の港」と申してもいいように思います。瀬戸内海というのは、海上交通の大動脈でございます。そうしますと帆船でございますから、風待ち、潮待ち、そういう港が必要でございまして、次第に港が発達してきます。
 そこに必ず、遊女が住んでいます。『法然上人絵伝』などを見ましても、播磨の室津に法然上人が立ち寄られた折、船に乗った遊女が上人の説教を聞きに来ている様子が描かれています。あるいは、『太平記』に出ておりますが、新田義貞らが兵庫あたりで、尊氏が九州からやって来るのを、待ち受けていた。そこへ尊氏らの大軍が船でやって来ました。戦争をする時には、最初矢合わせをするわけです。新田の武将で本間孫四郎という人が、まず矢合わせをする時に、船でやって来た尊氏軍に向かって、「将軍は筑紫から御上洛なさったからには、さだめし鞆や尾道の遊女どもを多数お召し連れのことでありましょう。」と皮肉っております。
 高縄半島の先から指呼(しこ)の間にあります大崎下島に御手洗という所がございます。ここは江戸時代17世紀中半過ぎから急に発達した港町ですが、明和5年(1768年)、人口が500人あまりなのに対して、遊女が100人から120人、2割以上を占めていた。港町における遊女の役割というのが、非常に大きかったのです。そんなことで、「遊女の港」は内海交通を代表するとも言えましょう。
 それから海賊、海賊と言うと何か悪い印象を与えますけれども、そうではなくて、まさにこれは歴史的な存在でありまして、水軍と言ってもいいのですが、海賊イコール水軍ということでもなく、海賊の役割もそれぞれの時代によって違って来るわけです。
 特にこの来島海峡、海流の非常に激しい所に海賊が集まるわけですけれども、すでに9世紀の中ごろの記事に「伊予の国の宮崎村付近では、海賊が大勢集まって盛んに略奪をし、そのために、公の船、あるいは私の船が途絶えてしまっている。」と記されています。宮崎村は、越智郡波方町宮崎のことですが、来島海峡の海賊は、このころから中央政府を悩ませていたわけです。
 そしてその後、御承知のように、承平天慶の乱という、関東では平将門、そして瀬戸内では藤原純友が乱を起こしています。藤原純友が乱を起こしたために、この付近、瀬戸内の海上交通が途絶えてしまって、西の方の米その他が全然京都に入らなくなった。そのために京都では、餓死者が続出しています。このことからも、いかに瀬戸内というものが中央を支えていたかがわかります。
 もう一つ例を挙げますと、鎌倉時代に文永弘安の役と呼ばれる元寇があります。元の進攻に備えて、西国の武士たちが博多湾に集合を命ぜられ、当然物資もそちらへ運ばれるということで、その時も京都では、「蒙古が京都に攻めて来なくても、この飢餓状態では、米屋も商売できないし、死んでしまう。」と言われ、いかに瀬戸内というものが、歴史的に中央を支えていたかということが分かります。
 さらに下りまして室町時代の15世紀の中ごろ、瀬戸内の船はだいたい、兵庫北関、今の神戸港ですが、そこへ寄って税金を払い、堺の方あるいは淀川をさかのぼって京都の方へ行っていたわけです。『兵庫北関入船納帳』という帳面が残っており、どこの船が何を積んでいつやって来たかが記されております。文安2年(1445年)だけでございますが、その年に1,960隻の船が、兵庫北関へ入港しています。ものすごい量の物資を、瀬戸内地域から積んで、中央の方へ行っているわけです。それを見ても、いかにいろいろな物が瀬戸内の周辺で生産され、京都など中央の生活を支えていたかが分かります。
 中でも、1,960隻の46%、900隻余りが実は塩船なんです。どこの塩かと言うと、だいたい備後塩というふうに書いておりますが、尾道の沿岸あるいはその前の向島などの島嶼部(とうしょぶ)、伊予の島も含まれて、伯方島とか弓削島とか岩城島で生産された塩も、一括して備後塩という名前で積み出されております。
 塩の量は全部で10万石あまりになりますけれども、何とそのうちの半分、5万何千石が備後塩なんです。いかに、芸予諸島でたくさんの塩が作られていたかということが分かります。
 そういうふうに、この瀬戸内、芸予諸島を中心として、中世から塩がたくさん作られていました。そういう伝統が江戸時代になりましても、島嶼部、それから山陽筋、そして北四国にたくさん塩田が開発されるということになるわけですが、塩の問題は、ちょっと長くなりますので。これぐらいしておきます。
 それで村上先生、いろいろな物を運ぶと言いますとこれは海運でございまして、先生の御専門の瀬戸内の海運のお話を、それに関連させて、お話していただければありがたいのですが。

村上
 先程の先生の御講演のテーマ、私の頭には「海賊の島、遊女の港」が一番強く残っていたわけですけれども、先生の御講演の筆記録を見ますと「瀬戸内島嶼の歴史」というのが正式の題名でございました。念のために。
 それで私、先程御紹介いただきましたし、芸予諸島のお話が出てきましたけれども、生まれは越智郡の生名島です。たぶん、愛媛県下では最北端の島になるんだろうと思います。終戦直後、昭和20年代でしたか、広島県の因島市が発足するに際しまして人口が足らないので、愛媛県下の島を一つ合併したらなんていうわけで、その目標にされて、だいぶ困惑したような島でございます。
 私、この島で育ったわけですけれども、先程、渡辺先生が御紹介されました弓削島。ここに、現在の校名は弓削商船高等専門学校と申しますが、高専に切り替わった年に私が着任しまして、その後20年あまり勤務してきたわけでございます。それ以前には弓削の元商船学校と申しましたし、発足当時は、明治34年、1901年でございますが、弓削村他1ヵ村立弓削海員学校、こういう格好で発足した学校です。
 渡辺先生と出会いましたのも、昭和56年だったと思います。昭和56年と申しますと、この学校で80周年を迎えまして、その時に記念講演をしていただいたのが、先程の先生のテーマであったわけでございます。
 先程、渡辺先生から御紹介がありましたけれども、海軍兵学校に先生がおられた時分、私は別の学校で、現在の大阪の外国語大学ですが、中国語を専攻しておりました。そのような関係から、終戦後、大学に入りなおしまして、東洋史の専攻ということになりました。その後、専攻分野からは離れてしまって日本史、それぞれの地域の歴史に没頭する。そういう形の中で、渡辺先生とお会いすることができたような次第です。それを機会に、当時の弓削の商船学校と申しますと、やはり船に乗る若い学生たちが集まっている所ですから、ここで君たちの先輩になるような船乗りの歴史についても勉強してみたらどうかというわけで、一緒に学習を開始していったわけです。その間に、いろいろ新しいことにも気付いていったわけですけれども、後ほどそれについては御紹介することにしまして。
 先程の続きとなりますけれども、渡辺先生、御専門の塩の生産の分野で、この地元の波止浜塩田と、それから塩の生産技術について、いろいろお伺いしたことがございますが、ちょっと御紹介いただけないでしょうか。