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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

4 地域研究の意味と、郷土の資料の重要性

村上
 近藤福太郎先生のお話が出ましたので、今治周辺での郷土研究についても、先生の方からアドバイスをいただきたいと思うんでございますが。

渡辺
 今治を中心としたこの地域の郷土史は、古くは私が中学で習いました玉田栄二郎先生などがおられましたけれども、現在非常に水準の高い研究が進められているということに、私自身も誇りに思っております。たとえば今治史談会も、後でお話をされる村上正郎先生が会長で、私も会員の一人ですが、今治が市になって以来続いておりますし、『今治史談』という報告書が出されております。これを拝見しましても、非常に水準の高い研究が見られます。そしてまた、私も随分にお世話になっております、今、今治南高等学校の斉藤正直先生、本当にいい研究をされておられます。そしてもう一つは、今治を取り巻く歴史的環境も、素晴らしいことです。
 ただちょっと、ここで苦言を呈するようなことになるかと思いますけれども。今日も、中央講師とか、地方史家とか、あるいはアマチュアというような考え方もされておられる方がおりますが、一国史とか国全体の研究をしている人と、それから地方の研究をしている人が上下関係にあるということは決してないわけです。
 確かに地方で研究している成果を一般の一国史、日本史の中に取り込まれるということはございますけれども、ただその研究の目的も違うのではないか。それは、地についたその土地に密着した研究、この土地の歴史を明らかにすることによって地域の将来を展望するという大きな意味がありまして、別に東京の方の大学で広い範囲の研究をしている人と差がつくということではありません。私自身も広島におりますけれども、この瀬戸内海のまさに地方史といいますか郷土史、そういうものをずっと研究して来たわけですので、本当に愛着、愛情がなければ、生きた研究はできないと思います。
 また話は飛びますけれど、私は以前、平凡社の『愛媛県の地名』の編集・執筆に参加させていただき『広島県の地名』についても同様の作業をしました。力の入れ方には全く変わるところはなかったのですが、愛媛県の執筆に際しましては、幼友達に手紙を書く思いにも似た、特別な感情がつきまといました。広島県の場合は、愛媛県よりはるかに長く住んでおりますが、全くそういう思いがわきませんでした。
 郷土史、郷土に愛情を持ち、郷土をどう将来考えていくか。これはやはり、歴史的な背景を研究した上で将来のことを考えなければならないわけで、地方史研究、郷土史研究に大きな意味があると思います。ただよく言われることですけれども、お国自慢になってはいけない。本当に学問的な意味で地方史をやるということが、非常に重要なことです。
 同時に、もう一つ言いたいのは、資料の保存についての危惧(きぐ)です。一例を申しますと、波止浜に円蔵寺というお寺がございます。ここに波止浜の町年寄りの記録、冊子が63点ばかり保存されていて、波止浜の歴史を知る貴重な資料だったわけでした。波止浜塩田関係のものも含まれていましたので拝見させていただき、フィルムに3分の2ぐらい撮りまして、残りは次の機会に撮ることにしました。そしたら、間もなく火災で焼けてしまいました。その時注意すればよかったんですけれども、庫裏のかまやに割合近い所の戸棚の中に入れてあったんです。本堂にでもきちんと納めていれば、焼けることもなかったんですが。今では、3分の2は私のフィルムの中にありますけれども、残りの3分の1は焼けてしまって、全然見ることができません。
 資料と、それに基づく歴史研究は大きな財産でありまして、私の尊敬する先生で、昨秋亡くなられた津田秀夫という江戸時代研究の専門家がおられましたけれども、その先生は「歴史というものは、遺産ではないんだ。資産なんだ。資産というものは後生の人に役立つということなんだ。」ということを強調されておられました。
 研究自体もそうですが、その研究の材料になる資料の保存、これは焼けたり散逸したりしたらもともこもありません。それを今治市周辺あたりから調査して、きちんと目録をとり、そして保存に力を入れていただきたいと思います。これはまさに、単なる歴史の遺産ではなく、資産として将来自分たちのために生かしていけるものなのです。

村上
 ありがとうございました。
 今、資料、資産という言葉で先生は表現されたわけですけれども、その資産は、私たちの周辺には、随分たくさんあるんだと思うんです。実は、私がまだ弓削の商船高専在職中のことでしたけれども、東京の女子大学院生が民俗学の調査で弓削島に入ってきたんです。紹介状も持ってきていましたし、私はその間、いくらかお世話をしたわけです。それで1週間ぐらい滞在をして、いろいろ聞き取り調査をされて、古い民謡を聞き出してきたわけです。
 こういう民謡でした。「♪女がつらいは横島、田島、なおもつらいは弓削、佐島。」こういう文句なんです。どのようなメロディで歌われていたのかも聞き取りをしてきたわけです。ここに歌われている「女がつらいは」というのは、いつの時代までさかのぼるものか。おそらくこの「女がつらいは」と言った表現は、ついこの間までのあの太平洋戦争のつらさではないだろうかと思うんです。この女の思いというものが、どこまでさかのぼれるものか。私はこの歌詞に非常に興味を持ちました。「横島、田島」というのは、これは広島県下の福山に近い方の島なわけなんですけれども、やはり島に生きた女性の思いがこの歌の中にも隠されているような気がするわけなんです。
 それから、私たちの研究については、資料あるいは先程の資産というのは、随分いろんな形で目の前に横たわっているんだと思います。たとえば私が体験したことですけれども、愛媛県の者にとっては、あの夏目漱石の『坊っちゃん』はどうしても忘れることができないわけです。作者の漱石は「あの『坊っちゃん』にはモデルはいない。」というふうに生前には言っていました。しかし実際には、小説を作るに際して彼の頭の中にはたぶんモデルらしき者は存在していたと思うのが、これが文学の常識だろうと思うんです。
 さて、その『坊っちゃん』の登場人物の中で、うらなりさんというのが出てきます。このうらなりさんのモデルというのは、一体どこの出身であったのか。弓削商船高専の前身、弓削商船学校の明治時代の古い卒業生の書いた作文が見つかりました。その中に、物理学校(今の東京理科大)を卒業して、しばらくの間、伊予尋常中学校、そして後の松山中学校(現在の松山東高の前身)に夏目漱石と同じ時期にも勤務し、明治38年に弓削の商船学校に着任してきた中堀貞五郎先生という方があったわけで、「この人がうらなりのモデルに違いない。」という伝承が、弓削に残っています。
 実は、この中堀貞五郎先生ですが、彼の履歴書が出てきました。この履歴書を見ますと、今治村の出身なんです。嘉永年間の生まれで、元々は今治藩の士族の出身です。この中堀先生は、先程のように東京の物理学校に学びますけれども、あの『坊っちゃん』の主人公も東京の物理学校出で数学の教師です。この中堀先生は、実際には地理だとか、あるいは理科だとか、いろんな教科を伊予尋常中学校、松山中学では担当していたようですけれども。この明治38年に弓削に着任する。小説上のうらなりさんは宮崎に転勤させられて行ったわけですが、実際には弓削島に来ていたのではないか。この人が、うらなりさんのモデルに違いない。これが弓削の商船学校の古い卒業生達の間に生きた伝承です。
 弓削商船高専創立80周年に際して、古い教職員の遺族の方々が集まった時に、中堀貞五郎先生の子供さん3人がそれぞれ御夫婦で来られたので、いろいろ事情を伺いましたが、そういう噂があったのは間違いない事実だそうです。ただし、ニックネームについて申し上げますと、松山中学時代は「こっとり」という名前であったそうです。松山中学の卒業生で、たとえば水野広徳さんなんていう有名な海軍の軍人(元大佐)は、「中堀先生というのは、非常に生真面目な方で人を疑うということを知らないから、カンニングをやるにはもっとも都合のいい先生であった。」ということを、彼の自叙伝の中に書いています。
 実はその中堀先生は、不幸なことに最初の奥さんと離婚しています。この離婚した奥さんが、正岡子規の妹の律さんであったわけなんです。肺結核を病んだ正岡子規を看取ったのは、この中堀先生の別れた奥さんであった。その後再婚された女性も、奇妙なことに律という同じ名前で。この律さんは、松山中学校の教頭であった方の娘さんで、この方は間もなく亡くなられ、さらに河部門枝さんという女性と結婚されて、その後弓削に着任されたわけです。
 中堀先生が着任された明治38年当時には、男の子供さんがあって名前は誠二さん。誠二さんは、弓削商船高専の創立80周年に際して、昭和56年に弓削島に来られた時には、鹿児島大学の名誉教授ということでした。この中堀先生一家は、明治38年に弓削に着任されて、大正3年に弓削島を去られたわけですけれども、中堀先生はこの大正3年に、弓削島から郷里の今治には帰られなくて、遠く京都に居を構えられたわけです。これは子供の教育のためには、どうしても京都に出たい。これが先生一家の念願でございましたようで、京都では就職のアテもない。そういう中で強引に移り住んだ。最初は京都の蹴上(けあげ)のインクラインのそばに居を構えられていたようですけれども。その後文房具店を開かれたりして、子供さんの教育にあたられた。子供さんたちも、なかなか勉強家であったと見えて、この誠二さん、それから一番下の孝志さん、いずれも京都の府立一中から三高、京大を卒業された。ただし、お兄さんにつきましては、誠二さんは、小学校6年の時に京都に行ったらしいんですけれども、移ってすぐ、京都の府立一中の入試を受けたんですけれども、見事失敗して1年浪人した。こういうふうなことを率直にお伺いしたことがあります。
 また、この3人の方のお母さんは、河部門枝さんですけれども。後、松山出身で文部大臣になられました安倍能成さんという方がおられます。この安倍能成さんの『我が生い立ち』という自叙伝が残っておりますけれども、それを読みますと、この河部門枝さんが師範学校を出られて結婚されるまでにこの先生に教わった、ということも書いてあります。
 そういうわけで、いろいろ目の前にある材料をたどっていきますと、随分いろんな、非常に興味ある事実が発見される。こういうふうなことを、私もつくづく実感したわけです。そういうふうな面で、私も歴史の研究のはしくれにつながっているわけですけれども、いまだに歴史学というのはどういう学問なのか、ある意味では漠然としてつかみどころがありませんけれども、確かに人間の生きる上で、これは非常に貴重な学問ではないかというふうなことは痛感させられているわけです。
 それで、もうそろそろ時間が詰まってまいりましたけれども、最後に、先生、こういうふうな地域の中で生きていく人たち、たとえば、先程御手洗のお話などを伺ったわけですけれども、厳しい現実の中に生き抜く人間の知恵と言いますか、江戸時代、そこでいろいろ努力されたことが、明治、大正に生きてきたようなお話も、何か御紹介していただけますか。