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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 絵画に見る肱川の風景の変遷

 私は37年間の教員生活で、32年間を肱川沿いの学校で過ごした。いつも手の届くところにある肱川を、何とか学校教育に取り入れたいと考えてきた。ここでは、郷土出身の画家の絵を中心に、肱川の移り変わりを見ていきたい。

(1)黒川形久(1914~1941)長浜小学校蔵

 絵を描き始めて、気が付いたら、いつのまにか40年も経っている。絵を描くようになったのは黒川さんの作品との出会いがあったからと言える。その絵が長浜河口の絵である。この作品は、昭和10年長浜大橋が竣工した年に描かれたものである。若いころの安井増太郎ばりの色彩、筆触に深い感動を憶えたものである。最近、山田茂人画伯が、同一場所で制作した作品を、長浜小学校の玄関で見ることができた。河口付近の風物の移り変わりを比較してみると、別の面での興味がわいてきた。往時の河口の町の繁栄ぶりをしのぶことができる。

(2)中野和高(1896~1963)喜多小学校蔵

 大洲出身で芸術院賞の栄を得て、洋画家として名を成した。白馬会に所属、黒田清輝に師事し、その作風は昭和5年ころの作品を見るとフォービスムの影響を受けた作風であったが、やがて端正でさわやかな絵へと変わってきている。この作品は昭和初期のもので田口の神社裏あたりを描いたものであろう。画伯は昭和15年に創元会を同志とともに創立・主宰し、画壇に新風を送って注目された。

(3)有海庄右衛門 大洲市立中央公民館蔵

 戦後の大洲地方の洋画家の旗手、大洲女学校・大洲高校の教師として、また地域の指導者として活躍された。
 この作品は、中村渡場上の畑から描いたものであろう。大正10年には、中川八郎画伯が同じ場所で描いた作品「晩春」があったが、関東大震災のおり焼失したと記録されている。小生も何度か同じ場所に立って描いたものである。橋、家並は変わり、今と昔を思い比べ、その変化にとまどいやいらだちを覚える。特に護岸工事の無神経さに違和感を持つのは小生だけではないであろう。
 今回、喜多郡出身の5人(うち3人を本書に掲載)を通して、肱川と生活、変化の様子を見てきた。まとめると、肱川の風景は橋と川が重要な要素となっている。河口の長浜大橋付近は、季節によって川と海の色がドラマチックな変化を見せる。大洲に近づくにつれて田園風景がひらけ、川を見つめていると、その流れの中に、さまざまな思いが去来する。肱川橋あたりからは、幾回にも折れ曲がる肱川と山すそに茂る照葉樹立の変化に自然に誘われる。こうした折々の変化と美しさにふれあえる魅力を持っているのが肱川である。