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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 平城貝塚からわかること


 ありがとうございました。私は、縄文時代を通じて、他地域との交流があるのではないかなというお話をしましたが、その後の弥生時代につきましても、今の先生のお話ですと、弥生の一番早い時期から、この地域でも水田が作られたのではないかとか、あるいは弥生時代の文化が、もろにこちらの方に来ているというような話をされました。ですから、弥生時代という新しい時代になって、稲作や金属器を使い始める新しい文化が、北九州、あるいは東九州から南予の方に入って来るというのは、まさしく旧石器時代・縄文時代から、ずっとそういうような流れの中にあったからです。新しい文化が他地域にできた場合に、すぐに南予の方に入って来るということは、それ以前にそういうルートができていたから、いち早く弥生文化というものが南郡の方にも入ってきたのだろうと思われるのです。ですから、人々の歴史というものが急に始まるのではなくて、新しい動きというようなものも、それ以前の時代の積み重ねがあって、初めて生まれ発展するのです。交流についても、お互いにルートがなければ、いくら北九州とか東九州で新しい文化ができたからといって、それが直ちに入ってくるということはなかったと思うんです。それがすぐに入ってきたというのは、交流に関してのそれ以前のつながりとか、積み重ねがあったからこそだと思うわけです。
 そのように考えていきますと、今の私たちの生活の中にも、急に昭和が始まったとか、平成が始まっただとかということではなく、そういう旧石器時代から縄文時代・弥生時代以降の人たちの長い積み重ねとか、あるいはそれ以前にどのような生活をしていたかということが、我々の現在の生活の中にもつながってくるのではないでしょうか。縄文時代と今日とをいっぺんにつなぐのは難しいというような気がしますけれども。今の長井先生のお話を聞いていて、そのような考え方を大切にすべきだと感じます。
 先程姫島の黒曜石は南予の各地域に伝わっているということを申しましたけれども、ここで少しだけ、そのことについて補足をさせていただこうと思います。佐賀県伊万里市の腰岳ですけれども、ここの黒曜石の分布は、福岡から大分、それから愛媛、高知、さらに山口、広島、岡山の一部というような広い範囲に、広がっています。それから先程出てきました姫島産の黒曜石については、たとえば佐田岬半島の野坂貝塚あたりにいったん入って、その後南予の方から高知の方へというルートが一つ考えられます。それからもう一つは、瀬戸内海を通って、芸予諸島の方へ向かうようなルート。縄文時代の人々が、少なくとも縄文時代の前期の時期あたりから、すでにこのようなルートというものを持っていたのです。姫島は高さが40mほどで、それから長さが120mぐらいの崖の所に、黒曜石の露頭が出ているんです。その黒曜石の露頭から石を打ち割って持ってきたり、あるいは露頭から海岸に落ちた石を拾ってくるわけです。
 ここで、南予の人たちが直接姫島まで舟を漕(こ)いで取りに行ったんだろうか。それとも姫島周辺の国東半島などの海岸に住んでいた人たちが、南予の方まで運んできたんだろうか、というような問題があるわけなんです。それで、私は皆さん方に宿題を出してみたいのですけれども、「姫島しか取れない黒曜石が南予の地方にあります。その石は、どのような状態で手に入れたんでしょうか。」ということを考えて欲しいんです。ただ宿題を出すだけでは、いつになったら回答できるか分かりませんので、一応ヒントを幾つか出しておきます。これは縄文時代の人々、あるいは旧石器時代の人々もそうですけれども、石器を造る場合に、姫島の原石地で原石を露頭から取ります。そして、この取った原石を、そのまま自分たちが住んでいる場所に運んできて、そこで打ち割って石器を造る場合が、一つ考えられます。その場合はとにかく、姫島という原石地から、石の塊ごと持ってくるわけです。そして自分たちの生活場所に持って帰ってきて、そこで石器を造る。もう一つ全く逆な考え方は、南予の人か姫島周辺の人かは別にしても、姫島の原石地で、露頭から黒曜石を取って、そこで打ち割って、石鏃を造り、あるいは石の包丁を造って、その後造った製品を、南予の方に持って帰るというやり方があるだろうと思うわけです。
 そこで石器を造る場合には、四つの段階を、一応私は考えているわけです。原石のまま持ち運ぶというようなことが一つ。次に、持ち運ぶ時にあまり大きな物だったら大変ですので、打ち割って汚い面を除いてきれいな石の塊に加工してから、石を運ぶ段階が一つあります。それから更に、大きな石を一定の方向で叩いて、石の剝片、つまり薄い石の板を取るわけです。その薄い石の剝片を素材にして、小さな加工を施して製品を造る。ですから、その剝片の状態が一つの段階です。それをさらに加工して石鏃などの製品までにして持って帰るという、四つ目の段階があるだろうと思うわけです。ですから、どういう段階で南予に持ち込まれたのか、原石か、製品か、その中間の形かということを考える必要があると思われます。
 その際、御荘町に節崎(ふっさき)遺跡という所があります。この節崎では、約1,200gの姫島の黒曜石が出ています。石の1,200gと言ってもなかなか分からないと思いますけれども、両手を合わせてややだき抱える大きさになると思います。それから一本松町の茶堂遺跡という所では500gぐらい、それからこの御荘町の深泥遺跡では、670gぐらいの石の塊が出ています。すると、これは加工して、あるいは剝片になった物を持ってくるのではなくて、露頭からはいだ原石を持ってきたのではないだろうか考えられます。ところが、この南予の他の地域では、そういう塊が出なくて、黒曜石の製品だけが発見される遺跡もあるわけです。だとすれば、これらの遺跡では製品になった石器が南予に持ち込まれたのではないかということも考えなければならないのです。
 皆さん方に出した宿題は、実は私自身の宿題でもあって、自分一人で解くのが大変ですから、皆さん方にも宿題を出したわけなんですけれども。黒曜石がどういう状態で持ち込まれたのかということが、非常に重要な問題になるのではないだろうかという気がしています。その場合にやはり問題になることは、こちらから南予の人たちが直接行って取ってきたか、その逆に姫島あるいは国東半島の周辺に住んでいる人々が、製品か半加工の石を持って、南予の方までやってきて南予で捕獲されたイノシシや鹿と交換をしてくれという形で、交換物として、黒曜石を持ってくるということも考えられてもいいのではないでしょうか。私の話は「考えられるのではないか。」ということばかりだと思われるかもしれませんけれども、そういう部分が多いことも確かなんです。
 姫島産黒曜石の交流について、国東半島の近くに羽田遺跡という遺跡があります。そこでは、30から50gの大きさから、1kg以上の大きさの黒曜石の塊が228個とまとまって出土している所があるんです。しかもそこでは、4,800点の実際に打ち割った剝片もまとまって出る。そういうふうに原料と材料が、すごく大量に出てくるわけです。その量から見てみますと、一つの遺跡で使うのには多すぎるぐらいの量を持っている。そういった遺跡があるということは、黒曜石という原料を使って石器を造っていた専業の集団というのがあったのではないか。要するに自分たちで使うのならば、そんなにたくさんはいらないわけです。どうやら羽田遺跡の人たちが、製品あるいは素材を持って、いろんな地域に回っていたのではないかと考えられる遺跡が、姫島の近くにあるわけです。ですから、今申しました姫島産黒曜石の交流についても、こちらの人が行ったり、向こうの人が来たりというような、両方での交流というものを考えなければならないということでしょう。姫島産の黒曜石、本当にちっぽけな石なんですけれども、その小さな石が、今私たちに、交流の仕方について、こんなことも考えられる、あんなことも考えられるというようなことを、どうも教えてくれているみたいなんです。黒曜石を媒介にして、南予の人々と東九州の人々の行き来というものが、我々が考えていた以上にあったということを、知っていただきたいと思います。

長井
 今、橘先生のお話にありました、黒曜石による姫島との関係。これは実は平城貝塚から出てきている黒曜石は二つあります。量的に極めて限られております。1点か2点だけ、腰岳産の黒曜石が平城貝塚から出ております。姫島産ではなくて佐賀県の腰岳から来ているこの黒曜石は、前期に伴うのではないかと言われております。しかし、ひょっとしてこれは後期に伴うものであるというならば、これはちょっと将来問題が出るのではないか。腰岳周辺というのは、縄文の晩期とか後期あたりもそうですが、もうすでにかなり稲作が行われているわけで、そこから黒曜石が来るということは、実は稲作ということを知った人が来るわけです。これもやはり将来問題になるのではないか。
 それと平城貝塚からは、姫島産の黒曜石が出てくるということを言いました。ここで一つ皆さんに、ちょっと補足と言いますか、補足の補足をしておきたいと思いますが、畑から、黒曜石の石鏃が1本出てくる。それは遺跡かどうかは分からないんです。たとえば、矢ですから、打ちます。失敗します。飛んで行ってしまう。落ちて、柄が腐ります。石鏃だけがそこへ落ちている。それを拾ったから、あっここに人が住んでいたとは言えないんです。何本かまとまっていたらいいんですが。まあ2本ぐらい出たと。しかしおっちょこちょいが落としたのかも分かりませんし。その時に重要になるのが、実は石鏃そのものよりも、石鏃を造る場合に石を叩きますと、剝片といういらないクズができます。石鏃のクズができる。こんなのが出てくると、ああここで加工したんだということになるわけです。そうすると、歩きながら加工はしませんし、そこに人が住んでいたんだなとわかります。黒曜石などの場合には石鏃というような石器よりも、ある場合においては、何でもないクズの方が重要になってくるという場合もあるわけです。
 それと、大分県あたりは、姫島があることからふんだんに原石があります。ところが、この南予も含めた愛媛県では、黒曜石は貴重品です。だからこれを持って帰りますが、こちらでは、あまり石斧であるとか、皮を剝ぐ石サジとかに黒曜石は使いません。要するに石鏃だけ。動物とか調理に使う鋭利な刃物にはサヌカイトなどが使われている。だから、本当に貴重品中の貴重品なんです。
 今先程、橘先生が言われましたが、解決の一つのヒントを僕の方から提供しておきたいと思います。それは今から2万年前の旧石器時代にナイフ型石器というのがあります。ここの和口や深泥からも出ております、動物の皮をはぐナイフ型石器というのは、サヌカイトです。瀬戸内海側は、ここに出てきております香川県の五色台、金山というここからサヌカイトが出てきます。四国にはここにしかない。これを持ってくるんです。実は愛媛県の瀬戸内の島あたりは、香川県で出てくるナイフ型石器と同じです。香川県は自分の県にサヌカイトがあります。愛媛県はありません。陸地であっても遠く離れております。出てくるナイフ型石器は、香川県と愛媛県で、形は全く同じ。作り方も全く同じ。大きさが全部愛媛県は小さい。なぜかと言うと、これは倹約している。だから遠方から肩にかつぐか、あるいは頭に乗せて、サヌカイトをエッチラコと運んでくるんです。高価なものだから、非常に丁寧に、ちょっとずつ、ちょっとずつ小さくして、たくさん造る。黒曜石を考える場合にも、そういう点を合わせて考えてもらうと、一つの結論がまた出るかなと。そう簡単には出てきませんが。
 石器で言えば、石器だけでもそれを見るといろいろ見方がある。一つの石器、あるいは石器の破片が出てきても、それからいろいろ考えることがあります。石鏃を例にとると、石鏃よりも破片が大事だということもあります。また、黒曜石以外のことについては、ここは九州の姫島とも遠く離れておりますし、香川県のサヌカイトの産地とも遠く離れております。どうしたらいいんだろうか。これは今置かれている南郡の立場で、昔も今も同じなんです。だからこれからの南郡の進むべき道、逆に言えば結論みたいになって来るんですけれども、何か示唆しているのではないか。それは代用品です。地元にあるもので、これに代わるものはないだろうか。南予の人は賢いから、サヌカイトでも、黒曜石でもない、地元にある頁岩をちゃんと割って、代用品としてやっているということです。これは偉いんじゃないか。生活の知恵だろうと思うんですが、そうすると、こういうような一つの、何もないけれども、地元にある石で代用をする。こういうものを、やはり現在でも考えたらいいのではないかと。何も高い所からどんどん、文化の高い所、産業の発達している所から受け入れるだけではなくて、独自性を生み出すことが必要ではないだろうか。石器にもそういう点がある。このあたりは、頁岩というのがあります。この頁岩を石鏃に利用している。しかし一番いいのは、黒曜石です。金のある人は姫島の黒曜石を使う。お金のない人は、頁岩で代用するわけです。