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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 出土品からわかること

(1)土 器

 平城貝塚遺跡は、今から約3,500年前の縄文後期中ころが、最も繁栄していた。
 今回の第Ⅳ次発掘では8,000年ほど前の早期に始まる押型文土器が見つかった。ただし、遺物はごくわずかな量でしかなく、人口も少なかっただろうと思われる。その後、約5,000年前の縄文中期の船元式土器やさらに約6,000年前の縄文前期の土器も見つかっており、前期の土器は熊本県の轟式土器と非常に似通っている。当時は鹿児島沖合の海底火山、鬼界カルデラの大爆発があり、その火山灰が降り積もっている堆積土から前期の土器は出てきた。縄文早期・中期の層には、貝殻や獣・魚骨は全く含まれておらず、貝塚はまだ築かれていなかった。
 縄文後期に貝塚が形成され、この地で独特の平城式土器が作られた。他に高知県土佐清水市の片粕式土器や、縄文時代最後の晩期にあたる黒土BⅡ式土器も出土している。

(2)石器と自然遺物

 石器では、打製石斧や石鏃、石錘、たたき石、すり石、それからスクレイパー(皮はぎなどに使用)がある。
 獣骨は、圧倒的に猪と鹿が多く、これは全国的な傾向と一致する。骨は火に焦げているものがあり、獣肉を焼いて食べていたことが確かで、骨にはスクレイパーで切り刻んだ跡もたくさん残っている。
 それゆえ、平城式貝塚の人々は、狩猟・漁撈・どんぐりなどの、自然に依存した生活をしていたことがわかった。晩期の土器が発見されているので、この時期には稲作が行われていたのかもしれないが、その確証はない。

(3)遺跡の変遷

 その後の時代では、弥生式土器が少し出ており、遺物は戦国時代で終わっている。この戦国期のものとして愛知県の常滑焼の大きな土器も出ている。その戦国時代の遺跡の上に、今日の集落が形成されている。