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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 調査発掘への経過と苦労

 私は当時教育委員会の社会教育課長として、発掘調査の事務局責任者、つまり調査を裏で支える仕事をしていた。
 平城貝塚は、明治24年に土佐の考古学者、寺石正路氏によって発見され考古学会に報告、一躍脚光を浴びることになる。その後昭和初年までに3回ほど、調査が行われている。戦後第1次~第4次の調査が行われ、私が担当したのが、この第4次発掘調査である。
 これは、四国銀行御荘支店の駐車場用地として整備するにあたり、緊急発掘調査を行ったものである。銀行側の工事期限も迫っており調査日数も限定され10日間で発掘調査面積約50坪という規模であった。工事着手等の情報キャッチが遅れ、国や県の補助が申請のタイムリミットを過ぎ、町独自の予算でもって実施した。戦後数回の発掘調査もすべて民家の建てかえ等工事の間隙をぬって行われ、層序的な把握ができていないことから、これを確かめるうえでも絶好のチャンスであり、その成果は大きなものを得ることができた。当時町議等より、数百万の調査費用に値する遺物があるのか、といった意見もあったが、膨大な点数に上がる自然遺物や文化遺物を収集することができ調査の目的を果たすことができたと喜んでいる。
 遺跡の上は、現在アスファルトで舗装され駐車場になっているが遺構は敷砂で覆いその上を復土してあるので、将来第4次で解明し得なかった部分をさらに補完されることを願っている。