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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇海道を通じた九州と四国西南部の交流

豊田
 続きまして、九州と四国西南部との交流ということで、お話し申し上げたいと思います。あとのワークショップのほうでも御提言があるかもしれませんので、古代から中世につきましては、簡単に済ませたいと思います。
 九州と四国西南部との交流の原点をなすのは、ここ(三瓶文化会館)の資料室にも展示されておりますが、おそらく姫島黒曜石(ひめしまこくようせき)だと思います。周防(すおう)灘の姫島という島は、愛媛と山口と大分と福岡の4県から、本当に近い所にあります。幕末期に、下関を米・英・仏・蘭の4か国連合艦隊が砲撃しますが、このときには、姫島沖に集結して、そこから下関に向かっていったわけで、姫島では、下関の砲台を攻撃する砲声が、大きく聞こえたというような記録が残っております。
 そういう非常に海上交通の便のいい所に、天然の恵みであった黒曜石が出たわけです。これは矢じりにしたりしますが、まさに刃物そのものです。黒曜石がなければ、ビール瓶を持ってきて削ればいいんだというぐらいで、まさに天然ガラスです。このガラスの刃物が、瀬戸内を中心に、もちろんこの愛媛県にもたくさん来ておりますし、西瀬戸ないしは、中部瀬戸内、さらに、そこからかなり入った山間地域にまで広がっております。これが、九州と四国の交流の、一つ大きな柱になると思います。
 それからもう1点は、これは豊前(ぶぜん)の国になりますが、宇佐(うさ)八幡です。八幡様というのは、日本で一番多い神様ですが、実像は非常に分かりにくい神様です。一番最初に神仏習合、神様と仏様が結びつくような神様でございますが、私は宇佐八幡というのは、三つの勢力の融和したものだと思っています。宇佐神宮の神主家には三つの氏族がありまして、まず一つが、大神(おおが)氏。これは大和の大三輪(おおみわ)氏の系譜をひいております。それからもう一つが辛島(からしま)氏。これは朝鮮半島、大陸の系統を引いています。それからもう一つが宇佐氏。これは地元の土俗の氏です。ですから、畿内勢力と、大陸勢力と、在地勢力とが結び付いたのが八幡、宇佐神宮なのです。
 この宇佐八幡が、逆に今度は入京をいたしまして、東大寺の大仏建立にのぼっていく。続いて、京都の岩清水(いわしみず)八幡、さらには鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡など、時の政権と結び付いていくわけです。この南予にも、八幡神社が、非常に濃く分布しておりまして、この宇佐八幡というのが、古代から中世にかけての、言わば九州と瀬戸内、特に四国西南部との交流の、2番目の原点になるものだと考えています。
 3番目は、特にこの伊予の勢力で申しますと、日振(ひぶり)島の藤原純友(すみとも)です。豊後には佐伯(さえき)氏というのがございまして、こちらは、大神家、先はどの大神氏から来たと言われております。藤原純友の乱、941年(天慶(てんぎょう)4年)の天慶の乱ですが、この時に純友の次将、つまり、第一の家来であったのが、佐伯是基(これもと)という人物でした。ですから、純友がいわゆる日振島を根拠に官物を略取し、讃岐から阿波、大宰府、伊予と瀬戸内を駆け巡ったのは、佐伯氏のような、この地域の水軍勢力を日振島を拠点に編成していった、その軍事力によるものではないかということです。
 それから4番目に、これは古代、中世の最後になりますが、豊後における佐伯氏の終焉(しゅうえん)ということになります。豊後は、御存じのように大友氏が支配しておりましたが、大友氏の支配力というのは、非常に強い反面、逆に弱い一面も持っておりまして、家臣団が再三反乱をいたします。1550年(天文(てんもん)19年)に、大友氏では、大友二階崩(にかいくず)れの変という反乱が起こります。さらに1556年(弘治(こうじ)2年)にも、これは大友宗麟(そうりん)が家督(かとく)を継いでおりますが、やはり反乱が起こります。その時に、この大友の大身、つまり、重臣であった佐伯惟教(これのり)という人が、豊後を退去して、伊予国宇和郡にやってまいりまして、1569年(永禄(えいろく)12年)まで伊予に滞在をしております。
 大友と伊予との関係でさらに申しますと、伊予の西園寺(さいおんじ)と土佐の一条(いちじょう)の戦いの中では、大友は、娘婿が一条家に行っておりますので、一条の救援をしております。その関係で、佐伯惟教は、一条救援のために伊予にやって来て、伊予勢力と戦うというようなことで、佐伯氏が生き延びるために、伊予に味方を頼んだり、また逆に伊予と戦争をしたり、時の政治勢力との関係で、行ったり来たりしているわけでございます。
 ですから、伊予と、豊前、豊後との関係では、古代、中世については、今申し上げたように、再三にわたって政治的、経済的、文化的関係があったということであります。
 次に近世を簡単に申し上げます。ちょっと資料を開いていただきたいと思います。
 先ほど申しました客船帳でございます。江戸屋客船帳と、浜胡(はまえびす)屋客船帳の表が入っております。客船帳というのは、ここに写真ファイルを3冊ほど持って来ていますが、全部で、こういう形にしまして12冊で1冊の帳面となります。かなりぶ厚い資料です。この江戸屋と浜胡屋というのは、先ほど申しました忠海の廻船問屋です。
 この忠海の廻船問屋の取引先台帳を見てみると、江戸屋(羽白(はじろ)家)には、だいたい江戸時代の後期から明治20年(1887年)ころまでの間ですが、37か国、6,693隻が登録されています。この家は、日本海沿岸が非常に多くて、近国が比較的少ないです。地元の安芸とか備後というのは、非常に少なく、いわば広域型の問屋と言えると思います。一番多いのは讃岐です。これを最初に見た時に、讃岐が一番多くて、しかもその讃岐の中でも観音寺が一番多いので、ちょっと感激した覚えがあります。
 国でいいますと、讃岐、周防、伊予、長門(ながと)、出雲(いずも)、越後、阿波、豊後(ぶんご)、石見(いわみ)という順番になっております。伊予は、629隻で、第3位です。
 それから浜胡屋。この浜胡屋というのは、荒木家です。この浜胡屋には、43か国、5,038隻が登録されています。こちらは近国型で、たとえば、安芸が1,003隻と、一番多いのです。先ほどの江戸屋は、安芸はわずか211隻でしたので、同じ忠海の廻船問屋でも、それぞれの経営形態によって、遠くの廻船と結び付きを持っている問屋と、近くの廻船と結び付きを持っているものと二つあるということがわかります。
 浜胡屋では、安芸、伊予、豊後、周防、播磨(はりま)、讃岐、備前、備中、備後という順番になっており、伊予の廻船が第2位、918隻ですね。忠海の廻船問屋と伊予および豊後の廻船との取り引きをした港を、地図に示しております。
 実はこれをもとにして、交易のあった港と取引の年代・品物、それから地域を分析した論文を書きました。一番最初は20年前に、忠海の問屋と伊予の廻船との分析をしました。これは当時の松山商大、今の松山大学ですか、そこでの学会で発表させていただきました。その中で、私は三つの地域類型をしました。すなわち、伊予の中でも島しょ部、東中予、南予の3地域です。
 その後、豊後の廻船問屋の研究をしました。豊後は、佐賀関半島の北と南で大きく分かれます。今日はあまり詳しいことは申しませんが、佐賀関半島の南と佐田岬の南、豊後で申しますと海部(あまべ)郡、伊予で申しますと宇和郡の地域の、非常に特徴的な交易品は、干鰯(ほしか)という産物です。この干鰯を、どの廻船も、と言っていいぐらい、この地域の廻船が積んでいるわけです。
 干鰯というのは、実は江戸時代の海をはさんだ豊後海部郡から伊予宇和郡にかけての地域の最大の特産品です。
 たとえば、浜胡屋では、この三瓶町で申しますと、二及(にぎゅう)が一番多いのですが、25隻が、安芸の忠海に行っております。それを浜胡屋の方で見てみますと、二及の大屋源右衛門とか、二及安土(あづち)の富田屋喜兵衛とか、周木(しゅうき)の小松屋源蔵、そのぎの源太郎とか、周木の油屋寅太郎とか、そういう船が行っております。さらに二及の井上才助、本二及の中村常八、二及の磯崎太郎兵衛の廻船が行っております。いわば、この地域の産物のコンセプトというのは、干鰯です。
 干鰯については、これは大阪にございます「大阪肥物商組合一班」という記録があるのですが、これを見ますと、詳しい説明は省略しますが、「諸干鰯のうち、宇和、佐伯、臼杵(うすき)、佐賀関(さがのせき)、右4か所の干鰯は、格別の物ゆえ」という言い方をしています。大阪の肥料問屋の間では、豊後とか伊予とかいう考え方はなく、豊後水道、本日のテーマで言いますと、「海道」産の干鰯が、特別の意味を持っていたのです。この宇和、佐伯、臼杵、佐賀関という干鰯だけを取り扱う肥料問屋が、最初4か所あるのですが、そのあと、10人になります。これは一流のものしか扱わないわけです。その後に、関東干鰯、さらには北海道産の干鰯というように、主要産地が変わっていくのです。
 私は、大阪の発達というのは、言い換えれば、日本の経済の大きな発達ということになると思いますが、その大阪の発達を支えたものは木綿の生産だと考えています。木綿、綿というのは、御存じのように肥料をたくさん食うのですが、この肥料となったのが干鰯です。したがって、大阪の繁栄を支えたのは干鰯と言っていいと思いますが、実はこの宇和、佐伯、臼杵、佐賀関という、豊後水道産の干鰯が、そういう大阪の繁栄を支えていったというふうに、私は位置付けております。