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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇古代における九州との交流

 古くから見られる九州との交流ということでございますが、今、お話ししましたように、台集落が三瓶では一番古くから人が住んでいたのではなかろうか、というようなことを言われております。「三瓶町誌」に詳しく出ておりますので、皆さん御承知のことと思いますが、台からは石皿(いしざら)と須恵器(すえき)が出ております。石皿が3,000年ぐらい前、須恵器が1,300年ぐらいたっているのではなかろうかと言われておりますので、それから考えまして、だいたい3,000年ぐらい前から、人が住んでいたのではなかろうかと考えられるわけでございます。
 さらに、昭和49年(1974年)9月には、同じく台集落で、今お話した石皿と須恵器が出たすぐ近くなのですが、縄文(じょうもん)式土器の破片(はへん)が9個、弥生(やよい)式土器の破片が3個、それから土師器(はじき)の破片が多数出ております。そのほかにも、石斧(せきふ)、つまり石の斧(おの)ですが、石斧や、先ほど豊田先生がお話になりました豊後、姫島(ひめしま)産の黒曜石(こくようせき)の破片も出ております。
 詳しいことは私も分からないのですが、これは本当に大変なことだと思っています。土師器も、ずっと古い時代には、だいたい大陸系らしいのですが、土師部(べ)という家が、作っていたわけです。それも、皆さん御承知のように、乾かす時点でヒビが入ったりしていけないので、九州のどこかで、良質の粘土で作って、それがここらあたりまで船で運ばれて来たものだということなのです。このことから、三瓶と九州との海道を通っての文化の交流というものが、今から2,000年から2,500年前ころから、つまり、縄文時代の終わりころから弥生時代にかけての時期にすでにあったというようなことが考えられるわけです。
 次に、須恵器ですが、これは、もう少し時代が下りまして、登(のぼ)り窯(がま)という、より性能の良い窯が使われるようになり、土器が大量に作られるような時代になってからのものですが、やはり、これも九州から三瓶町にもたらされたのだろうというようなことが言われております。
 それから、姫島産の黒曜石。豊田先生がお詳しいわけですが、先生が言われましたように、当時は、黒曜石は刃物として非常に貴重な物でした。黒曜石の固まりを、打ち砕きまして、そのまま刃物に使っていたというようなことですが、鉄よりまだ切れ味は良かったというようなことを聞いております。それと砥石(といし)で研ぐこともできたと言われておりまして、黒曜石、特に姫島の黒曜石は貴重なものであったわけなんですが、それが、この三瓶からも出ているということは、やはり大変なことだと思います。
 姫島産の黒曜石は、松山の辺りにもたくさん入っております。また、南宇和郡の御荘(みしょう)の方でも黒曜石が出土しておりまして、姫島の黒曜石は、相当広い範囲に分布しているわけです。10年ばかり前だったと思いますが、現伊予農業高校の長井数秋先生が指導されて、生徒さん方と丸木船を作りまして、姫島から松山まで航海されたことがありました。その結果は、やはりただ流されるだけではなく、山の頂上を見たり、あるいは太陽を見たりして角度を決めて航海をした、いわゆる山立て航法で行き来をしたのだというようなことを証明されております。
 三瓶町へ来ている、そういう土師器とか、須恵器とか黒曜石は、どういうふうに運ばれて来たのだろうか。あるいは、その代償としてどういうものが三瓶から運ばれていったのだろうか。先ほど、先生が言われましたように、三崎半島を回ってくるのですから、上げ潮、下げ潮を巧みに利用して、やはり漕いでいったのでしょうが、三瓶の人が丸木船をこしらえて、行って持ち帰ったものか、あるいは九州から船で持って来てもらったものか。いろいろと疑問点が浮かんでくるわけですが、そこらもこれからの研究課題だろうと思います。若い人がどんどんこういう研究をしていけたらと思うのです。
 一番大事なことは、およそ2,500年くらい前から、三瓶と九州との交流があって、いろいろなものが船で運ばれて来たのだというようなこと、このことをもう一度思い返していただければ、勉強の材料は、あちこちに見つけられるのではなかろうかと思います。 
 船による交流の話はひとまずにしまして、次に石の話をさせていただききます。
 台集落の上のほうに鉾岩(ほこいわ)という大きな岩があります。これは、ドルメンの一種と考えられていますが、これを下の台集落から、お供えものをして拝んだといわれています。
 ドルメンというのは、元々は柱のような石を2本ないし3本立てて、その上に机石(つくえいし)と言って、平べったい石を置いて、その下に石棺(せきかん)なんかを置くというもので、いわゆる種族の墓だったらしいのです。ヨーロッパには多いということですが、東アジアでも中国東北部、朝鮮半島を経て、日本の九州には何か所かあるということです。台のものは、豊後の国東(くにさき)から入って来たということですが、ちょっと略されてはおりますが、下に台石があって、その上に、今はちょっと崩れて斜めになっておりますが、机石を置いたものでございます。ただし、果たして石棺のようなものが下にあったかどうかは、全然分かりません。
 ただ、ここでも思いますことは、これが造られたのも弥生時代だろうと思うのですが、この弥生時代に、そのくらいの石を動かせるほどの人手があったのだろうか、ということです。つまり、これは一人や二人で動く石ではありませんので、何十人かの集落があったのではなかろうか。弥生時代、今から2,300~2,400年前ころには、相当な人家があったのではなかろうか、というような気がするわけです。つまり、ドルメンとか、メンヒルなど、いわゆる巨石(きょせき)文化時代というのが、すでに、三瓶にもあったわけです。
 余談ですが、机石の上にお供え物をして、鉾岩を拝んだということから、その机石がお供えの台石になったということで、台という地名がついたということを聞いています。
 この巨石文化時代のドルメン、メンヒルというのは、今言いましたように、日本でも数少ない遺跡です。そういうことで、一つ、お互い大事にしたいと思います。実は、近くに行ってみますと、その台石になっています石、大きい石ですけれども、昔、これを割ろうとして、ノミで穴をあけております。おそらくこれは、推測ですが、ここの近江帆布(おうみはんぷ)ができて、道路を付け替えたときに、その石を使おうというような気持ちから、割ろうとしたのではないかと思うのです。本当に、よく割られずに残っていたものだと思って、一人喜んでいます。