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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇大三島は東西の境目

佐竹
 この大三島町には立派な『町史』ができておりますので、それから数字をいただいて、少し具体的に大三島のことを調べてみました。私の感覚では、瀬戸内海は、西と東とではだいぶ様子が違う。東と西の境目はどこかと言いますと、どうやらこの大三島のあたりらしいということが、わかってきました。
 簡単に申し上げますと、この島しょ部においても、東のほうでは江戸時代前半のうちに相当な開発が進んでいて、畑の面積も相当広い開発が進んでしまっているし、人口も極めて多い。その一例として人口密度を比較してみましょう。上浦町ではだいたい18世紀前半(享保期)、大三島町では18世紀末ぐらいに、人口密度が150人/km²レベルに達しているのに対して、私が調べております西のほうの倉橋島では、19世紀の中ごろ(幕末)にならないとそのレベルまで達しないんです。同じ島しょ部と言っても、どうも東と西ではスピードがだいぶん違うんじゃないかと感じております。わかりやすく申しますと、たとえばこの大三島のあたりでは、人口の増え方が緩やかで普通の増え方なんですが、西部のほうの島しょ部に行きますと、この増え方が急激なんです。
 また、耕地面積を見ても、同じようなことが言えます。江戸時代の初めに領主側が年貢を取るために検地をして把握していた土地と、明治の初めに地租改正をやって調べた結果とを比べると、この大三島の場合、(大三島町と上浦町とを)平均すれば、耕地の拡大は2倍程度です。大三島の中でも旧岡山村あたりは、江戸時代の後半になって急激に人口が増えたり耕地が拡大したりした地域のようですが、それでも耕地の拡大は3倍ぐらいです。これは、「江戸時代の前半に、かなり開発が進んでいたし、人口も相当蓄積していた。」ということを示しています。だから、江戸時代の間の耕地の開発や人口の増加というのが、割合緩やかに進んでいるわけです。
 ところが、広島県でも西のほうの島々では、江戸時代の初めには、ほとんど開発が進んでいなくて、なぜか19世紀ころに急激に耕地を広げて、人口が増えているんです。たとえば倉橋島や江田島では、耕地の拡大率は6倍以上です。人口も、先ほど申しましたように、2,000~3,000人という規模から1万を超える規模にまで増えている。
 でも、今こうして問題にしているのは大規模な新田開発ではなくて、農民がコツコツと山を開いて作っていった畑だということを、おわかりいただきたいのです。大規模な新田開発というのは、藩が免許をして計画的に大きな事業をやりますから、すぐ検地をして土地を把握し、税金をかける土地になっていきます。ところが、農民がコツコツと山を開いて作っていった畑、つまりタダ取りの土地まではなかなか検地が及ばないから、急激に増えているんです。このようにして広げて行った土地が、瀬戸内の西部のほうでは、江戸時代の後半を中心に6倍近くに広がっているということなんです。そういうものを基盤に、たくさんの人口が増えてくる。
 では、これはその当時の経済的な条件で、なぜそういうことが起こったか。
 一つには、サツマイモという問題があると思います。大三島ではすでに耕地が開発されて人口もある程度あって、それを助けるという形でおそらくサツマイモが入ってきたと思うんですが、瀬戸内の西部では、むしろサツマイモが入って初めて、そういう開墾が可能になり、人間の生活を支えていくという段階に入ったんだと思うんです。
 それからもう一つは、経済的な条件の変化です。日本全国の条件の変化が島しょ部にはどう現れたかと言いますと、たとえば、それまでは麻が中心でしたが、江戸時代になってからは木綿を着るようになります(もちろん江戸時代もずっと麻を作っていますけれども)。木綿というのは、もともと人口が多い沿岸部の新田地域で作ることが多い。綿を打って糸にして、さらに機で織って反物にする作業はどこでやるかと言いますと、労賃の安い所です。したがって、島しょ部へそういう仕事が入ってくるわけです。担いで行って戻ってくるだけで、労賃が飛んでしまいますから、内陸部へは入って行きません。
 あるいはもっと端的な例で言いますと、漁業があります。綿作が始まりますと大変な量の肥料を必要としますから、干鰯(ほしか)という形で、イワシでもなんでも、お金で売れるようになる。つまり、江戸時代の初めまでは、ただ「魚が泳いでいる」というふうにしか見ていなかったものが、「寛永通宝が泳いでいる」ように見えるようになり、そこで初めて漁業というのが成り立つのです。
 あるいは、木綿をあっちへ持って行ったりこっちへ持って行ったりするのには、船がいるじゃないですか。それまでは、千石船みたいな大きな船で大きな商売をするしかなかったのが、最近宅配便が活躍しているのと同様に、江戸時代の後半になると、船の世界もそれまでの流通のあり方とは別に、小規模な回船というのが非常に発達してきます。そうすると、船稼ぎができるようになる。
 基本的には、瀬戸内という経済の大動脈のまっただ中にいるということが前提ですけれども、その全国的な経済構造の変化に伴って、この島しょ部でも様々な現金収入の機会が出てくる。そうしますと、税金のかからない土地を開いて、イモやムギで我慢をする。そして船乗りになったり、内職で機織りをしたり、あるいは漁業をする人もいるかもしれません。いろんな儲(もう)けの機会をつかまえて、お金を稼ぐ。あるいは出稼ぎに島から出て行って、またこっちに戻ってくる。そういういくつもの生活の基盤を広げてやっていく条件が、どうも西部の場合は19世紀に整ってくると思うんです。それでここで一段と激しく人口が増えていく。
 そんな目で見ますと、実はこの大三島を境にして、東側は、もうすでにそういう段階を早く過ぎているんです。それでちょうどこの大三島が境になる。
 広島県で言いますと、御調(みつぎ)郡に属する地域(因島(いんのしま)、生口(いくち)島)は、この大三島の東側と同じようなレベルです。人口密度が江戸時代の初めから相当高い。それから耕地の開発も進んでいる。
 ではなぜ、こういう東西の差ができたか。やはり一番には、地形が全く違う。西部のほうに行きますと、非常に険しいんです。山が険しいのは一緒なんですが、この山裾(すそ)が海からドンと上がるのと、やや緩やかな斜面を経てきつい所へ上がるのとの、相対的な話ですが、そのやや緩やかな斜面が、大三島のほうが相当広いと私は思っています。
 それと、大三島のほうが、はるかに経済的な発達を遂げている尾道や福山とか上方に近いということもございまして、先ほど申し上げましたような、いろいろな経済的なチャンスが、こちらのほうが一歩先んじて出たのではないかというふうに思うわけです。
 同じような爆発的な人口増加や耕地拡大と、それを実現して、次の資本主義の日本の社会へ入っていく準備をするという島しょ部的な現象を、そういうふうに西と東で見ることができるのではないか。
 明治へ入りますと、今度は地租改正で土地を把握されてしまい、税金がかかってきますから、もう農業といろんな商売を兼ね備えたような仕事に見切りをつけて、賃金労働者になりましょうということになる。それまで、たとえば出稼ぎで止まっていたのが、やがては、たとえば呉海軍工廠(こうしょう)の職工になって出て行こうという形で、島から出て行ってしまう。どんどん外へ労働力を供給するという動きになって、島の人口が減っていくわけです。
 地域によっては明治の終わりぐらいから始まっていると思いますが、やがてミカンという「そこにある畑からお金が取れる」という作物を見つけだした。それがもうしばらくこの島しょ部を支えたわけです。けれども、今また、もっと苦しい段階にきているのではないかと思います。
 最後に、そういう島しょ部に、非常に激しい開発が起こったことの前提として、自然の問題を少し申し上げます。
 最初にも申し上げましたように、和歌山の私の家は、第二室戸台風で倒れましたが、どうもこのあたりにはそんなことはなさそうだから、「自然と遊びましょう。」という雰囲気なんです。和歌山のほうは、台風の時にはこんな大きな波が来るわけですから、素人には恐ろしくて自然となんか遊べません。それに比べると、瀬戸内の自然はなんて穏やかなんだろうと思うわけです。瀬戸内には、そういう条件がある。
 そもそも、18世紀あるいは19世紀の激しい開発も、実は非常に自然が穏やかであって、そういう人間の勝手を許して、受け入れてくれたという面があると思うんです。もちろん、さすがに神様の木には手をつけなかっただろうと思うんですけれども、ほとんど木を切ってしまって、畑に開いてしまう。山から木がなくなり、水害が起こったりして、大変なこともあった。
 有名な話ですけれども、「白砂青松」というのは、自然ではなくて自然破壊を表す言葉です。つまり、「白砂」は、たとえば広島の場合は中国山地の鉄山の鉄穴流(かんななが)しで、どんどん山を崩して生産された土砂が含まれているでしょうし、「青松」というのも、元々あった木を切り二次林、三次林として植えた松ですから。昔は河口から出てくる砂が多い。本来の自然があれば、「白砂青松」なんていう景観はないわけです。あれはもう人間の手垢(あか)がついて、人間が徹底的に管理した自然です。日本で一番最初に、そういう「人間が管理した自然」が出てきたのが、実は瀬戸内地域なんです。
 人間の活動は自然を上回るという意味で、瀬戸内の自然は人間にとって非常に優しい。現在どういう形で現れているかと言いますと、たとえば、日本中どこでもそうですけれども、過疎の問題とか、あるいは高齢者が多いという問題。島しょ部も中国山地も、どんどん人が減って、高齢者の方の比率がどんどん増えてきているという点では一緒です。しかし、ものすごく違うところが一つあります。それは、お年寄りが独りでくらしている比率が中国山地ではとても低いんですが、島しょ部はとても高いということです。どうしてかと言うと、中国山地の過疎地では、集落全部が消えて行くんです。昔からそこに住んでいるからといっても、おじいちゃんやおばあちゃんが残ってくらしていけないから、ある次元まで人口が減ってしまうと、その集落を全部捨てて、「挙家離村」と言いますけれども、近くの町へ降りて行くしかない。ところが、この島しょ部の場合は、同じように過疎化が進みながらも、世帯数はあまり減らない。集落が全部消えたという話も、あまり聞かない。これはやはり、自然、あるいは生活の様式というふうなものが、内陸部と全然違う、瀬戸内らしい特色があるということだろうと思うんです。そういうところに、なおこの瀬戸内地域の、人間に優しい自然が生き続けているというふうに思うんです。
 ですから、人間のほうは、19世紀にはかなり発展をしたわけです。今も発展をし続けているんですが、ぼちぼち自然のありがたさというものを受け止めて、次の方法を考えないといけないのではないかなと思っています。

山内
 佐竹先生、どうもありがとうございました。
 先ほどのお話にも出ましたように、芸予諸島の東の代表が大三島であるとすれば、西の代表は倉橋島であるわけです。佐竹先生は芸予諸島の西のほうの、倉橋島を非常に詳しく御研究をされておられますので、倉橋島での御研究の成果を生かしていただいて、そこから大三島を現在まで見ていただきました。とりわけ、「19世紀は、瀬戸内島しょの時代だ。」と言われたこの言葉は、非常に印象に残りました。これについては、またのちほど少し触れていただいたらと思います。
 それでは次に、私は県内の人間ですから、少しカメラを島に近づけながら、「大山祇神社と水軍」というテーマで、外側から光を当ててみたいと思います。
 ただ、私は歴史の研究をしていますので、「水軍」という言葉は、あまり好きではないんです。なぜかと言いますと、この言葉は少し新しい、非常に整然とした時代のイメージがありまして、実際に瀬戸内海で活動した人々の姿というのは、そんなに整然としたものではないのです。むしろ海賊という言葉のほうが実態をよく表わしていると思います。
 海賊という言葉を使うと地元の方々に非常に嫌がられるんですけれども、それは海賊のイメージが間違っているんじゃないかと思います。私は、海賊をそんなに悪い者というイメージでは全然とらえていない。それはそれぞれの時代の資料を見てみたら、そんなに悪い者として出てくるわけではないですから。悪者としての海賊のイメージというのは、たぶん、外国の海賊からきているのではないか。たとえば、小さい時に読んだ童話の「ピーターパン」の中にも、ピーターパンをいじめる悪い海賊が出てきます。あるいは、今日は会場に高校生や中学生の方がたくさんおられますのでわかりやすい例を挙げると、東京ディズニーランドに「カリブの海賊」というアトラクションがあります。けっこう面白くて私は大好きなのですが、そこでは悪者の海賊がいろいろと悪いことを仕掛けてくるわけです。ああいうふうな外国の海賊のイメージが、明治時代以後日本へ入ってきて、「海賊というのは悪いことをするものだ。」という感じを持つようになったのだと思いますけれども、少なくとも瀬戸内海の海賊はそんなものではないと、私は感じております。
 瀬戸内海の海賊というのは、もっともっと複雑で、もっともっといろんな顔を持っております。それを整理するのはなかなか大変なのですけれども、少なくとも二つの顔を持っていることは、はっきりしていると思います。恐れられる存在であると同時に、もう一つは頼られ尊敬される存在でもあるということです。
 たとえば戦国時代ころに、「海賊衆」という言葉が使われます。その言葉の中には、「戦争の時に味方についてくれたら、非常に頼りになる。」というふうなイメージがあります。当時は海賊衆のことを「警固衆」とも言いますけれども、つまり身の安全を守ってくれる人々という意味です。それから、一つ一つの資料などを見てみますと、「海賊殿」というような宛先の手紙があって、海賊という言葉が、一つの敬称になっているわけです。あるいは人の名前の中に海賊丸というような名前も出て参ります。そういうふうに、決して恐れられる存在だけではなくて、ある時には頼られ尊敬される存在でもあったのです。
 「海賊」と呼ぼうが「水軍」と呼ぼうが、その実態はとにかく海で生活する人々です。海の生活者なんです。その生活の一つに、関所を設けまして、そこで関銭(せきせん)を徴収するということがあります。関銭をきちんと支払った者に対しては、身の安全を確保してくれるし、その場合には海賊衆は非常に頼りになる存在となるわけです。海賊衆を恐れる連中というのは、当然払わないといけない関銭を払わないから、実力行使に合うわけで、つまり恐れるほうが悪いことをしているのです。
 では、なぜ、海賊衆が芸予諸島のいろんな所で関所を設けて、通行税を取ることができるかということがあるのですけれど、これは実はちょっとよくわからないんです。そう言われてみると、私どもも海賊衆が芸予諸島で関銭を取っていることは知っていたのですけれども、なぜそんな権限を持っているかということはよくわからなかった。
 以下は私の考えではなくて、高名な歴史研究者が言われていることの受け売りなのですけれども、そこで大山祇神社が出てくるわけです。
 関銭というのは、神様の海を通らせていただく際の、言ってみれば初穂料だったのではないかというのです。元々はそういう初穂料だったものが、だんだんと整備されて、後には関銭というようなものに変わっていったというわけです。ちょっと突飛な考え方のような気もするのですが、大山祇神社のある芸予諸島で海賊衆が活躍することを考えると、非常によくわかるところもあります。
 ただこれは、ちゃんと証明されているわけではないので、一つの仮説です。
 当然、地元に住んでいる皆様の目から見れば、そんなことはおかしいぞというようなこともあるかもしれませんし、いや、やっぱりそう言われてみると、確かにこんなことがあるぞということもあるかと思います。
 そういうふうに、まだまだ、大山祇神社に関しても、あるいは海賊衆に関しても、わからないことがいっぱいあるわけです。そういうようなことに取り組むのも、一つの地域学、先ほどの教育長さんが言われた、「大三島学」になるのではないかと思います。
 それでは、これから少し佐竹先生とお話をしてみたいと思います。先ほど、「19世紀は瀬戸内島しょの時代」と言われたんですが、19世紀というのは江戸時代の後半ころですね。それより少しさかのぼって中世には、今は広島県に入っているお隣の大崎下島とか大崎上島が伊予の国の中にあって、大山祇神社の力が及んでいたということもあったようですね。この点について佐竹先生、少し補足していただけますでしょうか。

佐竹
 私は、「うちの土地が10cmほどあっちへ寄った。」「こっちへ寄った。」だのということに非常に興味がある性格なものですから、江戸時代の後半のいろいろな現象というものを、重視したいわけです。
 おそらくここにおいでの皆さん方は、「大三島は神様の島だ。」、あるいは「水軍の島だ。」「海賊の島だ。」というところに、アイデンティティを求めておられるんだと思う。この島はそれでいいかもしれないんですけれども、大山祇神社のない島にも通用するお話じゃないと「瀬戸内海像」にはならないということで、私はもっぱら、もっと広い、大勢の人にかかわるようなところで、瀬戸内という文化を考えたいと思っているんです。
 中世は中世で、いろんな人が住んでいて、もちろん民衆もいたわけですが、私たちは、武将のお話とか領主のお話としてしか、なかなかアプローチできないんです。そういう意味もあって、あえて近世のほうで考えたいということを申し上げたわけなんです。
 私の考え方でいきますと、そのうち、「大三島は、ひょっとしたら島ではない。」というようなことを言い出すかもしれません。
 世の中が鉄道や道路という交通手段で動き始めた段階になりますと、橋がかかっていない島の場合には、これは変なことのように聞こえるかもしれませんけれども、たとえば交通手段が、ただテクテク歩くだけである、あるいは船を使うという段階でいきますと、「島は、島ではない。」という認識の仕方というのは出てくると思うんです。道路や鉄道ができる以前には、いわゆる陸のほうでも、村から村へ行くのには船で行くしかないという所はいくらでもあったわけですから、そういう所と変わらない。
 実は私は、広島のほうで調べてみたんです。そうしたら、非常に見事に出てきました。人口が同じように急激に増加して、段々畑をどんどん拡大している地域というのは、実は島しょ部だけではなくて、たとえば、広島のほうからJR呉線で行きますと、「坂」という所があるんですが(広島の風景を御存じない所で申し上げてすみません)、そこからずっと呉にかけては、ちょうど極めて人口が増えたり、急に耕地を段々畑に開いたりする地域になるんです。実際に行ってみたら、その景観というのは、島しょ部と全く同じです。海からドーンと山が立ち上がって行くような所です。だから、私は「沿岸島しょ部」という言い方をするんです。
 この「沿岸島しょ部」という類型から行きますと、ひょっとしたら大三島は立派な内陸の平野部、沿岸平野部の性格を持っているのではないか。たとえば、海に向かって新田の大変大きいのを、このあたりに作っておりますし、綿作も展開している。そういうことを考えますと、「ただ物理的に島だから、島です。」という言い方ではなくて、人間生活の特徴などからいきますと、この東部の島々は、西部の島々とかなり違ってくるのではないかと思っています。
 瀬戸内海の島しょ部、沿岸島しょ部の独特の生活というものが、18、19世紀ぐらいに展開したという意味では、東西を通じて共通しているんですが、今度は、先ほど山内先生がおっしゃられた南北の関係、直接的に言いますと愛媛県と広島県、伊予と安芸という関係について考えてみたいと思います。
 山内先生のおっしゃられた中世までさかのぼっていきますと、そういう島しょ部で、海でつながれている所を、陸の理屈でもって「何々の国」というふうな線を引くというのは、そもそも何なんだろうかということになって参ります。
 昔の神社というのは国営ですし、荘園というのも実は国営です。「荘園は『私』で、国衙(こくが)領が『公』」というふうに、今の高校の教科書に出ているかもしれませんが、それはちょっと研究者の見方とは違う。神社は、国家を守る、国民のためにお祈りをするということで、国家から一定の経済的な給付というのを受けているわけです。荘園領主も、国家的な仕事をするから、荘園を持てるわけです。
 『大三島町史』にも出ていて有名なお話ですが、たとえばこの大山祇神社ですと、三島社領というのを、伊予の国の国衙領の中から、相当広い範囲で何十町歩(ちょうぶ)も指定されています。それは今治平野とかいろんな所にあるわけです。そういうものから出発して、最もお膝元の地域には、非常に強固な支配関係を作り上げている。
 三島社領の中でも一番中核的な社領として、三島七島(七つはどの島か、わたしもよく知りませんけれども)があって、そのうちのどうも最後に「三島社領の下島(しもじま)」という形で出てくるのが、実は大崎下島(現在の広島県豊田郡豊町)なんです。中世の資料では、大崎上島は安芸のほうで、「大崎島」としか出てきません。そして、下島は伊予の三島社領になっています。
 ですから、大崎下島はなんで「下島」と言うのかと言いますと、大崎上島に対して下島と言うのではなくて、たぶん「大三島社領の一番下にある島です。」ということで、この大三島に対して下島と呼ばれていた。
 大崎下島に宇津神社というのがございますけれども、そこはもともと七郎大明神という名前の神社で、この大山祇の7番目の王子にあたり、三島社領の「下島出張所」みたいなものであったわけです。あちこちにそういうような神社を配置して、それらが統括しているという形式があった。
 ところが、戦国時代に、安芸の小早川氏の勢力が相当見られるようになって、たとえば大三島まで警固衆がやって来てドンパチやったという話もありますが、最終的に下島は小早川氏が取ってしまった。それで自分の家来たちに分け与えるという、すでに中世の段階、戦国時代の段階でやっているわけです。
 そこにあった七郎大明神は、どうなったのか。江戸時代の前半の寛文のころに、「七郎大明神という名前のままで、わたしに神社の神主さんの免許をください。」と京都へ上って行ったら、「本当の神社の名前は別にあるんだろう。」というふうに誘導尋問されまして、「大山祇神社」とは言えませんから、「安芸の国、大長村の氏神、宇津神社」というほうを先に立てたわけです。そして、三島のほうとは全く縁が切れて、大長村の氏神という性格に、はっきり変わって行くわけです。
 その結果、江戸時代には、下島は安芸の国の中の島になってしまう。だから三島に対する下島ではなくて、大崎島に対する下島になってしまう。大崎上島、大崎下島という言い方になってしまった。そういうふうな現象が起こったのではないかというふうなことを考えています。
 先ほど山内先生がおっしゃられたのですが、中世の水軍というのは、海でつながれていて、お互いに流動性を持っている。そして陸のほうの政治的な秩序ががたがたになったときには、海上の秩序というものがにわかにクローズアップして、一つの王国のような姿を表す。ところが、陸の秩序がいったん治まってしまいますと、「ここからここは安芸の国、ここからここは伊予の国」というふうに、パリッとやってしまう。江戸時代になるとそういうふうになってくると言いますか。
 この地域に即して言えば、中世と江戸時代の違いというのでは、そんなことを考えているわけです。戦国のころの水軍を中心としたお話の中で、たとえば元は安芸だったとか、昔から安芸だとか伊予だとか言っている部分がありますけれども、そういう中の一つのつながりを持っていたとかいうのは、どうなんでしょうか。

山内
 そうですね。いずれにしても、水軍とか海賊衆とか呼ばれる人たちが、そんな国境とかなんとかというのを気にせずに活躍していたのは事実でしょうね。非常に幅広い活動をしていたと思います。ですから、今の我々とは意識がだいぶ違っていたことは間違いないと思います。
 海賊衆がもともと徴収していたのは、大山祇神社の初穂料ではなかったかとか、中世には広島県と愛媛県の、安芸の国と伊予の国の国境が今と違っていたのだとか、だいぶ意外な話が出てまいりまして話が面白くなってきました。
 要は、江戸時代以前においては、地域の様子も人々の考え方も現在とはずいぶん違っていたということだと思います。最初に教育長さんが、「なぜ、こんな小さな島に大山祇神社があるんだろう。大きな疑問だ。」と言われていたのですが、確かに20世紀の後半の時代に生きている我々から見るとそうなんですけれども、中世とかそういう時代の中に置いてみると、ひょっとしたらそれほど疑問なことではないかもしれません。
 たとえば私は、愛媛県の中、伊予の国の中では、中世以前においては、一番の先進地は芸予諸島だったのではないかと思っているんです。少なくとも、都へ行くのに一番近かったのは、この地域でありました。今、大三島は、たとえば今治から遠いとか、松山から遠いとかというイメージがあるかもしれませんけれども、かつては都に一番近かった。それは、海上交通中心の時代だったからです。今、今治から遠い、松山から遠いというように考えるのは、現代が陸上交通中心の時代だからなんです。
 中世以前の海上交通中心の時代に置いてみたら、大三島に大山祇神社があるというような謎も、ひょっとしたら解けるかもしれないなというような気がいたします。
 まだまだ、佐竹先生にお話を聞きたいところがたくさんあるんですけれども、前半の対談は一応このくらいにして、少し休憩時間を取らせていただいたらと思います。
 佐竹先生、どうもありがとうございました。