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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇浜とともに50年

 さて、わたしは、第二次世界大戦直前の昭和16年(1941年)に生まれましたが、小さかったせいか、あまり戦後の苦しみは覚えていません。ただただ、御飯が食べられなかったことと言うような食べ物の恨みだけが残っています。
 海岸(砂浜)は広場や公園のなかった漁村では子供たちの唯一の遊び場であり、自分の家のようなものでした。春はどろんこになって潮干狩り、夏は、朝は浜を手伝い、学校から帰ったらすぐ海へ飛び込んで、漁船と漁船の間をくぐり抜け、夕暮れまで、時間のたつのも忘れて泳いだり海岸で遊んだりしたことだけが、心に残っています。
 主人の両親の話では、わたしたちが苦しみを知らない食糧難の時代、育ち盛りの子供9人のために、農家へ魚を担いで行き、サツマイモややみ米と物々交換し、帰りには、持てるだけの野菜をいただき、米2斗(30kg)は、赤ちゃんの「ねんねこばんてん」にくるんで背負い、防空頭巾(ずきん)をかぶせて、おまわりさんの目を逃れて帰ったことが度々あったということで、皆さんの中にも覚えのある方があると思います。
 ちなみにわたしの主人は、9人兄弟の長男で、24歳の時、わたしは17歳で、はるばる隣のうちへ嫁ぎ、30数年になろうとしています。義母は、10人の子供を持ったつもりで、わたしに漁家の生活を、一から教えてくれました。そのころは、今のような核家族ではなく、親子三世代、10人、13人の家族は、湊町ではザラでした。このような三世代の同居が、今もわたしの所では、まだまだ続いております。
 東の空が白みかけた午前4時、ポンポンポンポンと出船、入船の心地よいエンジンの音に夢を破られ、浜の一日が始まります。足早に行き交う人。車の音。「おはよう。」「おはようさん。」「今日もいい天気じゃな。」「そうじゃな。ようけ揚がるといいがな。」「ああ、今日は雲が早いよ。雨かな。沖は出られないぞ。」マイクを通したような声が家の中まで通り抜け、浜に活気がみなぎります。
 そんな声を聞きながら、子供や夫の弁当作り、さらにおみそ汁と休む間もなく、寝ている子供を起こさないように、乳飲み子を背負い、浜へ。浜には一晩中操業して帰った底引き網が連ねてあります。足早に漁協へ。そこで気になる子供たちのことは、皆忘れます。浜で魚の選別。取ってきた魚は、ゴミと藻といろんな物の中から選別され、セリ市に出されます。朝の一時は、猫の手も借りたいほどで、大人も子供も(子供も3年生ぐらいになれば)皆手伝いに出ます。
 背負い紐を結ぶのももどかしく浜へ出た途端、一晩会わなかった夫に、「何しとる。早よせんと、間に合わんぞ。」思わず涙が。そんなわたしの耳に、そっと母が「すみませんと言っとけよ。」「はい。」大きな声で「すみません。」それも日がたつにつれ、一声の前に、「遅うなってごめん。」母のニコッとうなずいた顔に、わたしもニコッと見上げた空。谷上山が金色に輝き、素晴らしいパノラマ。浜に生まれて良かった。漁家に嫁いで良かった。幸せを感じたものです。満足を感じたのは、いつも夫と二人でいる幸せです。
 そんなわたしたちの生活を見てか、子供は、眠気眼をまさぐりながら、姉ちゃんに焼いてもらった卵を食べながら浜へ下りて来ます。寒い冬の登校前には、たき火を囲みながら焼芋が朝食となることもあり、この一時が親子のスキンシップの時間でもありました。そういう中で、子供たちは、自分で生きる力を養って、身に付けてくれました。
 しかし、だんだんと機械化が進み、近代化が進み、国際化、また情報化が進む中で、近代的な漁業が行われるにつれ、漁獲の増加、乱獲、そして漁獲の減少、資源の減少、また海の汚れと、だんだんわたしたちの生活を脅かす状態になり、現在は、たいへん厳しい状態です。
 そんな中で、わたしたち漁協婦人部は、明るく住みよい漁村づくりをモットーに、地域に根ざした婦人部活動を続けています。