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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇和島藩誕生のいきさつ

 西園寺家の統治は、橘遠保の後を受けて340年ぐらい続くんです。初めは、西園寺家が代官を置いて徴税していましたけれども、いわゆる中央集権の力がだんだん弱くなってくるために、どうしてもうまくいかなくなり、西園寺一族が領主となってここへやって来ました。北は大洲から、南は今の城辺あたりまでを統治しましたが、いわば公家さん大名ですから、非常に温和だったんです。
 ところが、戦国時代に入りますと、土佐のほうからは長曽我部に、西のほうからは九州の大友宗麟(そうりん)にそれぞれ攻め込まれ、西園寺家は中予の河野家を頼るんですけれども、結局やられてしまうんです。それもつかの間で、今度は、豊臣秀吉の四国平定によって、大名小早川隆景の領地(2年ほど)になり、次に、豊臣秀吉のお気に入りの戸田勝隆(かつたか)が来て(8年足らずで死亡)、その後、藤堂高虎がやって来ます(約12年。関ヶ原の戦い後は、その戦功により、今治地方をあわせて支配した。)。藤堂高虎が津(今の三重県)へ栄転して行った後、大名になって宇和島に来たのが、富田将監信高(しょうげんのぶたか)という人です。これも、数年にして、義兄(坂崎出羽守、石州津和野の城主)と喧嘩(けんか)したために、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)で改易(かいえき)となり、約1年近く、宇和島は幕府の直轄領になります。その時期がちょうど大阪冬の陣にあたるのですが、その功績によって、伊達秀宗(ひでむね)が、宇和島にやって来るわけです。
 ただし、秀宗がやって来た背景は、全国史的に見なければいけません。これは、徳川家康と伊達政宗との駆け引きなんです。その結果、この宇和島に秀宗がやって来ますけれども、やって来るについて、政宗は非常に心配した。政宗がいるから、宇和島10万石にしたものの、秀宗は豊臣秀吉の養子ですから、徳川幕府としてはつぶしたい家柄だったんです(そのいきさつは、時間がありませんので省略します)。
 政宗が一番心配したのは、「秀宗が宇和島でまずいことをしたら、本家まで累が及ぶのではないか。」ということでしょう。しかも、聚楽第(じゅらくだい)で非常に甘やかされてぜいたくに育っているので、宇和島に赴任する際、付け家老の山家清兵衛(やんべせいべい)は、「3万両(本によっては6万両とも言われている)の金を貸すが、ただやるんじゃないんだ。」と、(これは文書には残っていないんですけれども)おそらく言われているはずなんです。しかし、家老として殿様(秀宗)に言うわけにはいかないので、10万石で来たんだけれとも、7万石で生活をした。そういったことが積もり積もって、財政難を起こしたんだと考えられるわけです。
 実は、「7万石で10万石の仕事」をしなくてはいけない裏には、政宗の隠居料として、仙台へ毎年3万石を、政宗が死ぬまでの18年間も払い続けているわけなんです。その後10万石に戻りますが、秀宗が死ぬ間際に、一番下の息子宗純(むねずみ)に吉田3万石を分地しましたから、これでまた宇和島藩は7万石に戻りました。
 しかし、幕府からの普請や軍備などは、すべて7万石ではなくて10万石の賦役(ふえき)が来ます。吉田3万石を分地して7万石になった時には7万石の賦役で良かったんですけれども、やがて内ならし検地を行い、くじ持ち制度というものを作り、宇和島藩としては、名前だけは10万石に戻していきます。そして、それを裏付けするために、新田開発やなんかをどんどんやってくるわけです。元禄時代の地図、城下図を見ますと、現在、町の中心にある宇和島城は、海の中へ突出した岩肌の山でした。ですから、今の宇和島の市街地は、7割近くは400年かかって、埋め立てによってできた土地なんです。