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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇真珠養殖業者が三重から大勢来た

 昭和29年ころから昭和40年にかけて、宇和島の真珠養殖にとって大きな出来事の一つがございました。三重県を中心とした県外の方々が、漁場を求めていっぱい入って来たのです。と言うのは、昭和23年(1955年)ごろから三重県でも真珠養殖が再開されておりますが、業者数がうんと増えて漁場は過密になり、母貝が死に始めたものですから、空いている新しい漁場を求めて、三重から全国に進出してきたわけです。
 愛媛では、そのころ巻網漁が多かったのですが、昭和30年ころを境にして、イワシ、アジ、サバなどの魚の回遊が減って、宇和海沿岸にあまり入ってこなくなり、漁業組合も経営が苦しくなっておりました。ですから、真珠養殖業者が入ってきますと、組合員の職場が確保できるし、真珠養殖業者から協力金という形で収入もある、ということで歓迎されました。当然、真珠養殖業者も、新しい海が使えるメリットがありますから、この時期にドーッと入ってきたわけです。その結果、昭和33年(1958年)ころには、19の養殖屋さんができ、宇和海全体で養殖される母貝の数が増えてきました。
 実は、真珠母貝は、塩分の濃い所では、稚貝が生まれるのですが、水気が多い所ではだめです。県外から養殖業者の流入が多くなるまで、地元の業者数社は、御荘湾だけで母貝の養殖をしておりました。御荘湾は、僧都川(そうずがわ)が流れ込んでおりますから、水気が多いのです。その結果、真珠の稚貝が取れにくい状況でした。
 養殖される母貝数の増加と、養殖漁場が宇和海全域に拡大したことにより、昭和31、32年ころから、宇和海全体で真珠の稚貝が取れるようになったのです。杉葉を入れてやると、だいたい7月ころに、稚貝はつくのです。それ以降、イワシやサバ、アジを獲っていた「獲る漁業」から、真珠貝を「作る漁業」へと変わっていきました。
 昭和33年だったと思いますが、三重県では稚貝がつかず、困って愛媛へ買いに来たことがあります。1貫目(3.75kg)5,000円から8,000円ぐらい、相当高い値で売れましたので、その後の数年間は、稚貝・母貝のおかげで、漁民の方々は収入が安定的に入りました。
 そうしますと、「母貝よりも真珠を作りたい。」という方も出てきます。玉を入れて真珠を養殖するほうが、母貝の養殖に比べると、期間や資金の点でリスクが大きいので、当初は県も心配されましたが、昭和37年、資金などにゆとりのある人に対して、まず第1回の真珠養殖の免許が下りました。その後、2回3回と真珠養殖の免許が母貝屋さんに下り、現在、真珠養殖をやっている方は610人に上ります。先ほど19業者と言いましたけれども、現在はその30倍以上の業者が、愛媛県にできました。そして今日、愛媛の全国シェアは、母貝が67.9%、真珠が36.2%で、いずれも日本一の座を占めております。