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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇庶民の開いた参拝道

 遍路道につきましては、1653年(承応2年)に四国遍路日記という、京都のあるお坊さんが遍路をした時の日記が残っております。それによると、そのころの遍路道というのは、今治街道から国分寺を通り、それから桜井(さくらい)の医王山(いおうざん)を越えて、今の壬生川(にゅうがわ)へ入ってきました。その後、現在は地名としては残っておりませんが、砂田(すなだ)製材の前をフェリー乗場のほうへ行くと白坪(しろつぼ)という所があり、そこに宝寿寺(ほうじゅじ)がありまして、この62番を先にお参りして、それから61番香園寺(こうおんじ)、60番横峰寺(よこみねじ)へと、こういう順番に回ったという記録があります。
 もう一つ、その少し後に、「四国遍路道指南」という、これも遍路をしたお坊さんの1687年の日記ですけれども、それによると、1679年(延宝7年)、二代藩主の直治(なおはる)公が、「宝寿寺を新屋敷(しんやしき)へ持って来い。」という命がありまして、現在地に移され、そのころから、この遍路道が変わったということです。それは、国分寺から医王山を越えて、大明神(だいみょうじん)川を渡り、そして丹原へ入って、生木(いきき)の地蔵さんから、大頭(おおと)、大郷(おおご)へ入り、それから湯浪(ゆなみ)、古坊(こぼう)、そして横峰という道をたどったという記録が残っております。
 現在はどうでしょう。幾つも遍路道がありますので、必ずしもその二つの道に限ったわけではありませんが、そういう二つの道については、記録が残っています。