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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇ふるさとの思い出とその移り変わり

 私が子供の時代のお山市(やまいち)(霊峰石鎚山の夏の大祭でお山開きともいう。)のことを思い浮かべてみますと、7月の1日から10日までの10日間というのは、小松の駅前から町内を鈴を鳴らしながら、お参りの人が延々と列になって歩いていました。それが、だんだんと道が整備され、車社会となり、モータリゼーションの発達によって、今はもう見る影もありません。現在、7月の1日から10日までのお山市で、果たして小松に何人とどまってくれたかなというぐらい、人影もまばらであります。これは一つには、車社会の発達によって道が便利になってきたということなのです。
 たとえば、四国88か所の横峰寺へのお寺参りですら、ちょっと前までは、香園寺とか、宝寿寺とかに、一杯宿泊のお客さんがいたのですけれども、今は宿泊客がいるのは香園寺だけくらいです。というのは、黒瀬(くろせ)のところから平野(ひらの)林道が、横峰寺のほうへつながり、あまり小松で泊まらなくても、ちょっと時間があれば行けるようになったのです。昔は横峰寺というと、非常に難所で、歩いて上がって降りてということで、小松で一泊しないと、なかなか行けない時代だったのですが、今や全く小松町へとどまらなくても、行ける時代になったということなのです。そういうふうに、小松町の環境が、四国を含めた中国地方や近畿地方との一つの経済エリア(経済圏)になってきたわけです。そうなると、例えば愛媛県内での我々のことを考えてみると一番よく分かるのですが、奥さんが3万円か5万円くらい使う金があれば、だいたい松山へ行きます。10年くらい前までは今治か西条かだったのですが、最近は、道路網もできたり、高速道も順々につながるということになって、松山に出て行ってしまうようになったのです。ということは、人はより経済力の大きな方へ流れて行くということです。
 だから、極端に言うと、橋が3本架かり、縦貫道、横断道ができれば、逆に今度は、近畿経済圏とか、広島、岡山を中心とした中国経済圏のほうへ人や経済が吸われてしまうという可能性が、多分にあるということなのです。
 そういうことを考えると、好むと好まざるとにかかわらず、この小松町も、もう既に高速道時代に入っており、あと何年かすれば、完全にそういった高速道時代のまっただ中にあるわけです。そういう中にあって、我々は、「何にもしないで指をくわえて見ていたらいいのか。」、あるいは「少しでも強い経済圏に引っ張られるのに抵抗して、なんとか高速道というものを利用して、少しでも小松町の地域のためになる、あるいはこの地域の経済の活力を生ませるような方向を考えていかなければならないのか。」という二つのうちどちらか一つを選ばざるをえないわけです。何もしなかったら、排ガス公害であり、空き缶公害であり、騒音公害しか残らないし、サービスエリアへお客さんが一杯寄ってくれても、し尿とゴミを落としてもらって、そして終わってしまうだろうということが、目に見えているわけです。
 そういうことではしようがない。少しでもそういう時代の流れに、抵抗していかなければならない。それが、今生きている人間の義務ではないかなという気がするわけです。