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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇オリジナルとは

矢野
 また本題のほうに返りたいのですけれども、先程、上田先生のお話の中に、レンガに見せているけれども、木で造っているという説明がありました。本来は、文化的なものを復元する場合、オリジナルに近くないと駄目という考え方があるのではないかなと思うのです。例えば「オランダおイネが歩いた中町の町並み、おイネの下駄の音の聞こえる町並み」などというフレーズを、だれか考えついたとして、「え、おイネさん、本当に下駄履いとったか。」というので、その史実を調べたら草履だったということになって、それはおかしいという反論が出てきます。しかし、その町並みのイメージを表現するためには、それもいいのではないかという考え方もあると思うのです。
 それで伝統保存とそれから文化創造というか、そこらあたりの観点で、一度眺め直した時に、先程の上田先生のお話の中の、レンガみたいだけども中身は木だというような所も、ちょっと興味を抱いたのです。上田先生の御著書の中に、「ユーザーの都市」という本があるのです。その中に江戸時代を復元して、日本中からお客さんを集めている妻籠(つまご)の町の話があります。瓦(かわら)で屋根を葺(ふ)いて江戸を再現しているのですが、実際の江戸時代には板張りだったのです。だけど、別にコピーでいいじゃないか、瓦になっても、江戸時代の妻籠のイメージが崩れるわけではないというふうに、非常に大きなものの見方で、文化都市づくりを考えておられました。そこで、オリジナルにこだわるということと少し許容範囲のあるものの見方や新しい現代のもの、例えばポンピドーセンターの中にピラミッドがあるというような、また、伝統と現代といったようなことも、考えさせられました。
 それで、上田先生にそこらあたりのお考えを、聞かせていただいたらと思います。

上田
 オリジナルなものとコピーということなのですが、まず一つは、オリジナルなものって、本当にあるのだろうか、ということがあります。実は、オリジナルと考えられたもの、たとえば西洋からやってきた科学技術というものを、我々は西洋のものだと思っていますが、大半がアラブからきたものなのです。11世紀から13世紀にかけて、十字軍がヨーロッパから遠征して行って、アラブの科学技術を持って帰るわけです。それまでヨーロッパは科学技術がなかったのです。ところが、アラブの科学技術は、その前にギリシャの科学技術を受け継いでいるわけです。そうなると、この科学技術というものも、一体、何がオリジナルか、ということがよく分からなくなってくるのです。それが日本に来ますと、またいろいろ変質します。その変質するということも、一つの技術なわけです。もっといえば、人間なのですけれども、我々も親のコピーです。人間というのも、オリジナルを探っていくと、サルか何かになってしまうわけで、こんな話は哲学論議みたいですけれども、オリジナルの研究というのは、厳然としてあるのです。
 ところが今は、どこで博物館や何かを造っても、建物は造れるけれども、中の物を集めてくるのがとても大変なのです。大変だというのは、もうほとんど失われているからです。また、失われているだけではなくて、分からないことが一杯あるわけです。そうなってくると、どうするかというと、本物だけということでただ並べていたのでは、何のイメージも湧いてこないわけです。そこで、今必要なのは、そういうわずかに残された物を自分の分野だけで見ないで、インター・ディシプリナーと言いますが、学際研究でやり、お互いの疑問を出していくことによって、おぼろげながら全体像をつかんでいくような手法が使われています。学問も今や情報化してきたわけで、自分の専門の学問だけを、タコ壷にこもってやるというのでは、何も分からないのです。横へつなげていくことによって、はじめて分かってくるのです。
 例えば土器の破片があります。それをただ並べて「これは本物です。」だけでは、見るほうも何のことかいなと思うだけです。考古学者だけなら土器ですけれども、例えば人類学者は、アメリカインディアンの生活と比較します。アメリカインディアンは、言うまでもなくモンゴロイド、アジア系人種で、恐らく日本人と祖先をどこかで同じくしており、やはり土器を作ったりしているわけです。それとよく似ているじゃないかと言うわけです。そういうふうに比較することによって、繩文時代と、つい5、600年前までやっていたアメリカインディアンの生活というのはとてもよく似ているということが、このごろ、言われるようになってきたわけです。
 そこで博物館も、物だけではなくて情報を集める博情館になってくるのです。ポンピドーセンターがその皮切りと言いましたが、日本では、大阪にある通称「民博」とよばれる国立民族学博物館が全くその姿勢をとっております。博情館追求の姿勢なのです。だから物そのものは、博物館といいながら、あまりないのです。かつて大英帝国華やかなりしころは、エジプトへ行って、なんでもごっそり持ち帰っていたわけです。黄金のマスクでも、なんでも持ち帰ってこれたのです。今はもう、世界中どこへ行っても、民族意識が強いですから、物を持って帰れません。その国の古い物を持って帰ろうと思っても、全部税関で差し止められて、世界の民族資料を集め展示することはできないのです。
 同じことが日本についても言えると思います。物がなくなっていくと同時に、学問そのものはどんどん情報を要求されている時代でもあるということで、もちろん物も必要なのですが、同時にいろいろな分野の専門家の情報も必要になってくるのです。
 例えば土器について、お料理の専門家も入って、縄文人は土器をどう使ったのだろうということで、ディスカッションをしていました。その中で、料理の専門家が「日本人は、鍋なんかを使ってお魚でもお野菜でもなんでもすぐ煮ます。ところが煮る料理というのは、日本人は当たり前と思っていたのだけれども、西洋にはほとんどなく、だいたい焼くか、乾燥させるかなのです。」と言いました。煮るというのは、考えてみたら、土器が発達しないとできないわけです。そうすると、どうも縄文人は、土器の中で煮たのだろうということになり、縄文人が煮るということを発見したということが分かってきたのです。
 最初は焼けた石を入れて料理したのでしょう。もちろん石鉢に入れたというケースもありますが、石鉢は、たくさんの器が作れませんし、深鉢はなかなか作れないのです。それが粘土なら、いくらでもできるわけです。しかも土器で料理を煮ると、お肉でも普通焼いたら油が流れてしまうわけですが、全部流れずにミックスされていくのです。このようにいろいろな味がミックスされていく所に日本の味文化、煮るという文化が生まれてきたのではないか、ということになったわけです。