データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~
◇卯之町(うのまち)幼稚園
私は、1923年(大正12年)1月に、先哲(せんてつ)記念館裏の「天保14年卯之町駅駅内」という傍示の所にあった家で生まれました。先程山西先生が言われた教育発祥の地の大師堂は、ちょうど私の家の上にありました。ここは先程言われたような広さがあるのですが、この前には、また別の先生が住まわれた家がありました。そして、あの有名な白井雨山が作った神武(じんむ)天皇の像があります。さらに、その上には別荘があり、今は財団法人上宇和(かみうわ)協会というものになっております。その溜池に流れてくるのは、昔王子(おうじ)神社(現在は駐車場になっている。)があり、それから出ていた湧き水でした。その湧き水は、中町の人の水源となっていたのです。現在も、酒造りに使っています。
中町は、現在の先哲記念館前の四つ角から上がる明石(めいせき)寺への参道と、それから宇和島街道への道とが交差する所であり、二宮敬作の住居や高野長英の隠れ家や鳥居門もあったりして、この商店街は非常に栄えていました。また、王子神社の手前に山本院というお店がありましたが、これは参拝客のための仏具とか、参拝用具がたくさん売られていました。現在の宇和聾学校(宇和町小学校跡)には立派な門柱がありますが、これは非常に立派な御影石で造られており、素晴らしい石組がなされております。
ここには、1段、2段、3段というふうに宇和町小学校の校舎がありました。開明学校舎もあり、そして幼稚園もあり、教育施設がこの一角に集まっていました。
町並みに目を向けると、四つ角の筋と中町の筋に商店が一杯ありました。大師堂と書いてあるところは、池町と言って、清水のお茶屋さんがあったところで、私の同級生がいました。それから、池田屋と書いてありますが、これは今の清水火薬店で、同級生がいました。伊勢屋は、大木という女性の同級生がいました。いづみ屋にも同級生がいました。
清沢(きよさわ)屋の先には、検番(けんばん)というのがありました。そして、吉田屋から、蛭子(ひるこ)神社までの所が、今、幼稚園となっています。その斜め上が開明学校です。今はこの蛭子神社はなくて、民具館が建っています。長英が隠れた所は、私ども子供の絶好の遊び場でした。後ろに続く酒蔵なども、私たちの遊び場でした。
1920年(大正9年)にメソジスト教会が建ち、私は1927年(昭和2年)に幼稚園に入りました。私たちが通った幼稚園は、赤い屋根の長い建物に教室があり、その建物の向こう側は卯之町教会の教会堂になっていました。幼稚園舎の前に、牧師さんの家がありました。当時、どこの出身かは分からないのですけれども、フランク・キャラハン先生という神父さんが、時々、松山から長浜まで船で来て、長浜(ながはま)から馬車で、私たちの所へ来られたことを覚えております。
先程、山西先生が言われましたが、清水長十郎の弟、伴三郎氏は、この幼稚園のオーナーでして、非常に頑固一徹で、しかも口髭をたくわえておられて、子供心にも恐ろしかったのですが、奥さんは、その反対にとても優しい方でした。清沢屋となっている所が、その伴三郎氏のお住まいでした。この清沢屋は、今管理している人によると、築225年になるということです。
私どもの主任教師は玉井とも子先生と言われ、今の役場の倉庫の所に、昔は洋風の別荘があり、そこへ毎日私と友達はその先生をお迎えに行っていました。一昨年、突然、その先生が会いに来られて、「昔の園生に会いたい。」と言われましたが、昔の園生はこの近所にはもう誰もおりません。「昔は、毎日先生をお迎えに行ってたんですよ。」と申しましたけれども、先生は覚えておられませんでしたが、当時の話を、本当に懐かしくしたものです。先生は、現在も松山市に住まわれており、90歳を過ぎたそうです。
その先生が、オルガンを弾いて歌う賛美歌が好きで、なぜか私は、日曜学校へ通うようになりました。私は、大師堂で、慈悲を心の中に持ち、教会で、キリストの愛を自然に育んだのではなかろうかという気がします。