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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇新田八幡さんの杜(もり)で

 ふるさと祭りの会場となる新田八幡神社について御紹介します。この神社の境内の中央には、樹齢400年ものヒノキの木があり、二股になっていて、子供たちがよくそこに登ったり、石を投げ入れたりして遊んだところだそうです。そのためか、少し枯れているところもあり、今では根元を保護するために、石垣をつくり囲いをして、大切に育てられています。
 それ以外に、この神社の周りには樹齢100~300年のスギや、樹齢150年のケヤキや、樹齢500~600年のシイなどの古木が数多くあります。これらの古木は長い年月、このお宮さんと一緒に生きてきたのです。こういった樹木に囲まれた新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀(まつ)る神社です。今から640年ほど前、南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男に、義宗がいました。義貞は亡くなり、一族もバラバラになって衰えていった時、再起を図り義宗は四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきました。義宗と家来は、岩木(いわき)の森に家を建てたそうです。日がたつにつれて、奈良の吉野にいたころのことが忘れられなくて、中田渡の谷間がその吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしんで、東の谷の桜の美しい所を桜原(さくらわら)と名付けました。そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけ、自らを慰めていたそうです。今も吉野川と呼ばれています。
 義宗は、疫病にかかって、山奥のことだから医者も薬もなく、近くに住むおばあさんだけが、看病をしてくれたそうです。ある日、義宗は桜原で川の水を飲もうと下りた時、動けなくなり亡くなったそうです。田渡の人たちは、義宗の遺徳を慕い手厚く葬って、ここに新田武義神社をつくったとの話です。そのころより、この神社にお参りすると御利益があるということから、旧暦2月の初の卯の日のお祭りを「卯の市」と呼び、卯の刻(午前6時ごろ)参りをするものが多くなってきました。戦前(太平洋戦争前)は縁結びの神様として信仰が厚く、多くの露天商や、いろんな見せ物小屋でにぎわったそうです。戦時中は、武運長久・戦勝祈願のお参りの参拝者も多かったのですが、終戦直後は国を挙げて人心が動揺し、次第にすたれていき、縁日といっても参拝者が少なく寂しい状態になりました。