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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇阿波の人形浄瑠璃とは

浅香
 次に、徳島の伝統芸能についてお話をしたいと思います。
 徳島を代表する伝統芸能は、阿波踊りと人形浄瑠璃です。阿波踊りについては、今日は課題ではありませんので割愛しますけれども、かつて阿波は「浄瑠璃の国」と言われていました。これはどういうことかと言いますと、大坂の道頓堀にあった竹本座や豊竹座などを中心に江戸時代に開花した人形浄瑠璃を日本中に広めたのが、阿波の人形座や、当時は徳島藩蜂須賀(はちすか)家の支配下にあった淡路の人形座の人々だったわけです。
 江戸時代、他の国へ自由に旅行することは、経済的にも難しいし、そんな機会があっても、一生のうちに何度も江戸や大坂に行くことはありません。したがって、直接に道頓堀で人形芝居を見ることができた人はごくまれで、ほとんどの人たちは、江戸時代最大の庶民芸能であった人形浄瑠璃とは、阿波や淡路の人形座によって接することができたのです。
 昭和50年代の調査によりますと、日本国内には、3人遣いの人形座が過去に存在したという地域が141か所ありました。そのうち、今でも伝統を守って時々公演しているという人形座は、58座もあります。そして、そのほとんどのところで、阿波と淡路の人形座が遣い方を伝えたとか、あるいは阿波の人形首(かしら)が残っているという伝承があります。鬼北文楽もその一つであるわけです。
 阿波と人形浄瑠璃の結びつきは、徳島藩蜂須賀家の淡路支配とかかわっています。人形浄瑠璃の起源については、はっきりした伝承はなく、いろいろ言われていますけれども、元文3年(1738年)に穂積以貫が著わした『難波土産』では、人形浄瑠璃の人形を初めて遣ったのは、西宮の傀儡師(くぐつし)とされています。その西宮の傀儡師の祖といわれる百太夫という人が、諸国を巡って淡路の三条(さんじょう)村、今の三原町ですけれども、そこで亡くなりました。百太夫は、宮中で人形を遣ったとされていまして、そうした人形遣いと西宮、淡路とは密接につながっていて、その淡路が蜂須賀家の領地となることによって、「阿波は人形浄瑠璃の国」と言われるようになっていったということなのです。
 いずれにしましても、淡路島には人形遣いを職業とする人々が居住していました。その数は文化8年(1811年)の棟付(むねつけ)帳によりますと、三原郡の3村663軒中に「御蔵道薫坊(おぐらでんくんぼう)百姓(人形遣い)」が134軒となっています。これらの人々が、約50座を結成して、ほぼ日本中を興行して回っていました。興行の出発に際しては、城下の徳島で必ず公演しましたので、浄瑠璃が阿波の人々に親しまれるようになり、同じ領内であったことから、阿波と淡路を一緒にして「阿波の人形芝居」と呼ぶようになったと言われています。
 徳島での人形座の数は、明治20年(1887年)の調査では60座余りでした。これは名人と呼ばれた人形師、初代天狗久(てんぐひさ)の注文帳に58座の名が残っていたことから類推した数字です。今日遣われますお弓の首も天狗久の作品だそうです。
 その阿波と淡路の人形座の違いはと言いますと、淡路はプロであるのに対して、阿波は素人の域を脱しておりません。だから阿波では、巡業する時も、淡路のプロを加えて興行しました。ただ、昔は、語り手は阿波の人が上手で、三味線は淡路の人がうまいという定評があったのですが、今はもう全て淡路がうまいです。
 阿波の人形浄瑠璃の特徴として、よく文楽のそれと比較されることがあります。文楽は、都市芸能らしく、浄瑠璃を主にし、演技が繊細写実的で、いわば色白骨細なのです。それに対して、阿波・淡路は農漁村の祝祭芸能らしく人形が主で、演技は誇張的で、浄瑠璃を含めまして、いわば日焼け骨太です。文楽は日常娯楽として、常打ち小屋で町人相手に上演されました。一方、阿波・淡路は「物日(ものび)」とか「紋日(もんぴ)」と言う特別なことが行われる日に、その奉納娯楽として、神社の境内などの農村舞台か掛け小屋で、農漁民を相手に催されたものです。しかも客席は、青空天井ですので、三味線の強い響きや太夫の野太くよく通る声や人形の大振りな演技が不可欠であったわけです。人形の首も輪郭が明瞭ですし、彫りもやや大削りで、塗りもつやがあり、野外向きに工夫されています。しかも、人形の首を大きくするということは、明治15、6年ころ、その方が目立って有利だということで、淡路の志筑(しちく)座が初代の天狗久に注文したのが始まりで、各座が首の大きさ競争に加わり、文楽のほうは4寸(約13cm)ですが、阿波の場合は6寸(約18cm)と、今のような大振りになったそうです。
 そういった違いがあるわけですけれども、阿波が人形浄瑠璃の歴史で決定的な役割を果たしたのは、やはり人形師(人形細工師)です。では、なぜ阿波に人形師が多くいたのでしょうか。それは、阿波の人形浄瑠璃は巡業するわけですから、荷造りなどで人形が傷みやすいからです。また、興行に行った先で大雪にあったりして、興行ができなくなり、負債を背負い込むと、人形を質草にしたわけです。あるいは、座の者が病気をすると、村人に世話を頼み、人形をつけて残しておきます。そして病気をした人は、病気が癒(い)えるまでそこにいて、村人に人形の遣い方、あるいは浄瑠璃を教えたり、中には、そこで生涯定着したという人形遣いもいるようです。
 このように、阿波の人形浄瑠璃は、巡業中に人形を手放すことが多く、そのため、人形座の依頼を受けて、つぎつぎと人形首をつくる必要があったことから、阿波では多くの人形師を生み出してきたわけです。
 大江巳之助(みのすけ)さんという、文楽の人形首を専門につくられていた方がおられました。第二次世界大戦で文楽が首を焼失してしまった時には、約300体の人形すべてをおつくりになったという方ですが、今年(平成9年)の1月に亡くなられました。その1か月前に、私が巳之助さんのところにお見舞いに行った時に、おうちで臥(ふ)せっておられましたが、その隣に人形の工房がありまして、そこでお弟子さんが人形を彫っておられました。ふすま一つ隔てているわけですけれども、巳之助さんがその時におっしゃったのは、「今ね、ノミの音がするでしょ。その音で、だいたいどこを彫りよるかということが分かります。」と言うのです。すごいですね。そういう巳之助さんの技量が、今の文楽を陰で支えてきたわけです。
 ところで、阿波の人形首と、巳之助さんが彫られる、いわゆる文楽の人形首の違いは、大きい小さいにもよるのですが、それだけではないのです。お弓の首をよく見ていただきたいのですが、これは老女形の首ですが、鼻筋がスッと通っています。天狗久は、「その人の気持ちになって、自分は彫るんだ。」ということを言っています。つまり、お弓の気持ちになって首を彫るんだということです。そうするとお弓の首に個性が出ます。「傾城阿波(けいせいあわ)の鳴門」を御覧になると、お弓というのは、大変なしっかりものなのです。だから非常に端正な表情をしています。
 これに対して文楽の場合、巳之助さんは女遣いの名人・吉田文五郎に言われた「娘の首はボーンヤリ彫れ、心は自分が入れる。」の教えを座右の銘にし、全ての首の表情は性格を100%現わす一歩手前で止まるように仕上げています。
 また、天狗久の娘首は、りんとした美しさがあるわけですが、これもやはり、阿波は藍(あい)づくりなどに女性の働きが大きな役割を果たしていたわけですから、娘首の表情にも反映されているのだと思います。
 眉(まゆ)と目と口を共に動かせ、喜怒哀楽を表現することができる男性の首に比べ、女性の首は、基本的に目だけしか動きません。目を閉じることぐらいですので、女性は泣くことさえできれば良かったのでしょう。封建時代の女性の位置というものが、ここで分かってきます。しかし、女性も、おばあさんの首になってくると、口が動くようになっています。ここらあたりを考えてみますと面白いですね。
 同じように、若い男の首というのは、眉も口も動きません。若いうちは自己主張をする必要がないのだということでしょうか。封建時代の人間がどのように解釈されていたかが首を見ることによって、理解できると思います。