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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇天狗久の頭との出会い

 私が天狗久(てんぐひさ)の頭に初めて接したのは、昭和37年3月に、当時愛媛新聞社鬼北支局長だった和田重作さんから「県指定文化財の鬼北文楽があるから見に行かないか。」と誘われて、泉農協の倉庫へ出掛けて行ったときでした。その時、浄瑠璃の語りであり、文楽の理解者でもあった人形の持ち主毛利善穂さんに案内してもらいました。薄暗い2階の倉庫の中は、鬼北文楽の衣装と諸道具で一杯でした。その中の机の上に大小さまざまな30個余りの人形頭(かしら)が転がっていまして、顔を見ると、目玉をぎょろつかせたもの、目をむいているものなどがあり、私は一瞬異様な圧迫を感じました。その圧迫感は何だったのだろうかといつまでも思っていました。
 私が小さいころ、年に1度、母に連れられて近くの共栄座という小さい劇場に阿波人形芝居を見に行きました。母はその日は、重箱に弁当をつくって、いつもよりさっぱりした身ごしらえで、なんとなく生き生きしていました。父も浄瑠璃が好きだったので、一家そろって出掛けました。しかし、私は子供でしたので、華やかな舞台や、裃(かみしも)をつけた浄瑠璃語りの動作、眉(まゆ)が上がったり下がったりする怖い侍、宙を飛ぶキツネなどばかりに気をとられて、芝居の筋はなんにも分かりませんでした。ただ、芝居の中で女役の人形が、よよと泣き崩れる場面などを見ると、「どうしたことだろう。」と思っていました。横に座っている母も、たもとで涙をふいているのです。私はそれを見て驚いて、「よほどのことがあるのだろうなあ。」と思っていたものでした。
 そういう幼いころの思いを抱きながら、私は人形頭を見たのですが、倉庫の中の頭はあおむけのまま動かないのです。父や母を慰め、涙を流させた主役、わき役たちの頭がそこにありました。それは、思っていたよりもかなり大きな頭でした。母によく似た女の人形頭を手にとると、目は半眼のままで唇はかすかに開いており鼻筋が通り、喜びも悲しみも一つにしたような白い顔でしたが、長年使ったせいか鼻の先と耳たぶがすり切れていました。「この引き締まった量感、洗練された抽象美、気品に満ちた女の表情は、だれがつくったのだろう。」と私は思い、頭を裏返しにして心棒を見ると、「天狗久」と焼印が押されておりました。これが私の天狗久との出会いです。
 昭和34年(1959年)3月には県指定文化財となったのですが、その後、人形は使われないまま、泉農協2階の倉庫に保管されることとなったのです。その間も、毛利さんは一人、暇さえあれば人形の衣装の虫干しをしたり、繕ったりしておられました。私と和田さんの二人で調査にあたったのは、このころでした。「だれも修理する人もなく、この暗い倉庫に取り残されている人形たちの行く末を思うと哀れでならない。」と、毛利さんは今にも泣きそうな顔で話しておられました。それから5年後に毛利善穂さんは75歳で亡くなられ、その後長男の高光さんが父の遺志を継いで鬼北文楽の保管に心を配ってこられたのですが、不幸にも昭和44年3月に火事があり人形頭と衣装の一部は火災に巻き込まれました。火災の難にあった人形頭の一部は黒焦げとなり、その他も火をかぶって傷つきました。