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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇四国山地の焼畑

 四国山地は、焼畑に最適のところです。その理由の一つは、四国の東西に川が流れていますが、その周辺が結晶片岩(変成岩)地帯なのです。そして、この結晶片岩地帯というのが、焼畑には最も良い地質なのです。それから、雨量が多いこともあります。さらには、四国は遠流(おんる)の地で、平安時代から罪人が流されて来ていたことが挙げられます。これはどういうことかと申しますと、徳島県東祖谷山(ひがしいややま)村の開発の歴史の中に、次のような話があります。天平勝宝4年(752年)、京都で罪を犯した恵伊羅御子(えいらみこ)という人が、土佐に流されたのに間違えて祖谷山へ入って来ました。土佐もここも同じだということで、この地に住み着き、元からいた人たちに、焼畑の仕方や鉄のくわの作り方などを教えて、開発を進めていったというのです。まさしくこれが、四国の山村の開発の歴史だと考えられます。それから、四国の山村には、平家落人伝説がいたるところにあります。これらも皆、一つの流れではないかと思われます。
 この焼畑の記録として、愛媛では慶長19年(1614年)の寒川山村苅畑見付帳(さんがわやまむらかりはたみつけちょう)(「寒川山村」は、現在の伊予三島市富郷(とみさと)町大字寒川山、また「苅畑」は焼畑のこと)です。これは、当時焼畑で、どのようなものを作っていたか、その面積と石高、さらには各集落の戸数などが分かる資料です。焼畑地帯の山村の調査には、貴重な資料だと思うのです。それによりますと、作物としては、ヒエ(稗)、アワ、大豆、小豆、イモ、ソバ(蕎麦)、ムギなどがみられます。どんなものを食していたか、予想がつきます。また、年貢は、大豆と小豆だと考えられますが、三島(みしま)村の陣屋(今治藩三島御役所)まで年貢になるものを、一山越えて運んでいました。焼畑地帯の奥地からの物納は、大変な労働でありました。そのため、お金で年貢を納めたいという願いもありました。
 西条藩主一柳氏の時代に、山方(石鎚山のふもと)の農民が銀納を願いでましたが、許されませんでした。しかし、何度犠牲者が出ても訴え続けました。このことが、幕府に知られ、一柳氏は取りつぶされ、以後西条藩だけは銀納になりました。
 続いて、焼畑の土地利用のことですが、資料は、「仁尾(にお)」(現在の伊予三島市金砂(きんしゃ)町大字小川山(おがわやま))に住んでいた農家の土地利用図です。ニオというのは奥地という意味だそうですが、その中で、図中の95・96・97番地と101の1・2・3番地は、その土地の形から焼畑に利用されたところだと思えます。この土地を順繰りに焼きながら耕作を続けていたと考えられます。一度焼いたら、その耕地から4、5年は作物が取れます。従って一つの耕地は、次の順番が来るまでの約10年は休むことになりますから、たいして肥料もやらないで、永遠に食物が得られることになります。家族が増えたら焼畑を広げれば間に合うのです。
 だが、天候が毎年同じではありません。そこで飢饉(ききん)に備えるための工夫もされています。その一つが、シコクビエというヒエの栽培です。これはまた、コウボウビエともいわれ、この名前には、弘法大師(空海)がくださったという意味が含まれています。このシコクビエの栽培は、奈良県の十津川上流、石川県白山山ろくの焼畑地帯に分布しています。シコクビエはどんな天候でも、四国の一部では年に2度も収穫ができたといわれるほど、確実に実るのです。四国で発見されたであろうシコクビエが、全国の山岳の村に行き渡ったのは、修験者の働きがあったと考えられます。
 愛媛および各地の焼畑地帯には、いろいろな共通点が見られます。その一つは、焼畑の呪文(じゅもん)です。それから、平家や新田一族の落人伝説です。さらに鐘踊りもよく似通っています。これらにも修験者がかかわっていたと考えられます。修験者は、山深い山村の人々に、新しい種子や娯楽、出自(しゅつじ)(出身)の誇り、病気の祈禱(きとう)や薬の調合、あるいは心の平安(仏や神への信仰)や旅の案内(熊野などへの団体客を募って案内する)などを通して深くかかわり、独特の文化をもっていたと思います。