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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

□ふるさと再発見-愛媛学へのいざない-

岡崎
 愛媛の景観というテーマで、4名の方のお話をお聞きしたわけですが、私のまず第1の感想は、「一口に景観といってもいろいろあるなあ。」ということです。妻鳥さんは、景観の中でも特に農業景観について、焼畑を題材にして話をされ、それが未来へどのようにつながっていくのかという点に関して、一つの提言をされたような気がいたしました。また、玉田さんからは、歴史景観と言いますか、地域の宝物を探す中で、気付きの目を持つことの大切さを話されたようでした。さらに、残りのお二人は、共に自然景観についての御発表でしたが、少林さんからは海中の、また岡山さんからは山岳のというように、それぞれ多岐にわたる景観についての御研究でした。
 4名の皆さんは、恐らく全然言い足りないと思っておられると思います。それで、その補足も含めて、それぞれの御研究の中の問題点とか、未来へはこうつないだらいいのではないかというようなことを、順にお話をいただいたらと思います。それでは、妻鳥さん、どうぞ。

妻鳥
 では失礼します。今、鳥越先生のお話を聞きながら、ああ、こんなこともあったということを、2点、お話したいと思います。
 紅葉のころ、伊予三島市の山あいの中之川(なかのかわ)(伊予三島市金砂(きんしゃ)町大字中之川)という集落へ行った時に聞いたことなのですが、そこでは、紅葉のことを「紅葉がうれる」と言います。この辺りは山が深いですから、紅葉は、木のこずえから次第に赤くなっていきます。その様子が、カキがうれる有り様と似ているので、「うれる」という言葉が使われるようになったのでしょう。こうした、一見なんでもない言葉の中にも、村人たちの自然を見る気持ちが込められているのだなあということを感じました。「ああ、あの人たちは、本当にこうした自然を身近なものにしているんだな。」ということを感じます。
 それからもう一つは、上猿田(かみさだ)(伊予三島市富郷(とみさと)町大字上猿田)という山の中へ行った時に、そこで出会ったおばあさんが「キジが、くれなんだ(くれなかった)。」という言葉を使っていました。どういう意味かと言いますと、ある年、焼畑に小豆をまいた。実がはいった時、キジがたくさんやって来て、その小豆を全部食べてしまった。キジにやられた、はがゆいという気持ちを、「キジがくれなんだ。」と表現したのです。この言葉には、「自分も自然の中の一員であり、たまたま自然を利用して作物を作らせてもらっている。同じ自然の中の一員であるキジは、ちょうど腹がすいていて小豆が欲しかったのだ。」という意味が込められているのです。また、そのおばあさんは、夜一人で家におる時に、タヌキがやって来たら、「ほんなら、これを食べなさい。」と言って食べ物を与えるということです。
 こういうふうな生活が、山の中にあるのです。その生活と共に自然の景観が守られている。これが焼畑を巡りながら、見聞きした一例です。時間が来たようですので、これで終わりたいと思います。

岡崎
 ありがとうございます。それでは玉田さん、よろしくお願いします。

玉田
 お手許のはがきに鳥の絵が入っています。皆さん、この鳥を御覧になったことがありますか。これはヤマセミを描いたもので、カワセミの仲間です。カワセミの大きさはスズメくらいですが、ヤマセミはハトくらいあります。大抵が白黒のまだら模様で、大変すてきな鳥です。これが、惣川地区を流れている川沿いに、いくつものつがいでいるのです。ところが、地元の子供たちは、ヤマセミのことを聞いてもほとんど知りません。学校の先生や5、60歳代の方に聞いても、ヤマセミを全然見ていないですね。ですから、これと同じように、自分たちのすぐそばにすばらしい自然があっても、見ようと思わなければ見えない。普段は、それが見えなくなっている。本当の真実の姿が見えなくなっている人が、大変増え始めたのではないかなというふうに思っています。ちょっと寂しいことだと思います。
 それから、先程の鳥越先生のお話を聞いていましたら、なるほどなというようなことを、私も感じました。大野ヶ原のふもとで、道端に湧(わ)き水があるところがあります。ところがある日、そこに大きなうんこがしてありました。「ひどいことをするな。水洗トイレのつもりかな。」と思って、その時はそれで終わったのです。1か月くらいしまして、また大野ヶ原へ行く時に、そこを通りました。そうしますと、なんと小さなお宮さんを置いた方がいるのです。それ以降は、そこを汚す人は、全然現れていません。先程先生から御紹介いただいた例というのは、非常に参考になるなあというふうに思います。
 最後に一つ。これも、鳥越先生のお墓の話で思い出したことですが、私の住まいの隣に、我が家の江戸時代のお墓があります。道路の拡張工事で、道路幅と墓が重なってしまうことになったのですが、結局は道路の設計が変更され、墓はそこに残ることになりました。私はそこに、「ゲニウス・ロキ」という言葉の入った看板を立てています。「ゲニウス・ロキ」とは、ラテン語で「大地の精霊」という意味です。大地には、やはり様々なエネルギーがあるし、それを神様だと思ってもいいのだろうと思います。家を建てる場合でも、そこで農業をやる場合でも、そういう大地の声を聞きながら、我々一人ひとりが生きていくことを心掛ければ、もっと豊かな生き方ができるような気がします。

岡崎
 続いて少林さん、お願いします。

少林
 私の実家は寺ですので、鳥越先生のお話はすごく分かるなあと思いました。家の裏はお墓になっていますが、そこに生えている木は、切ることができませんから。海を守るのだったら、珊瑚礁(さんごしょう)の中にお墓を作ろうかと、ふと思ったりしました。
 今、海は、次第に汚れてきています。私が潜っているところも透明度がかなり落ちています。私たちは、自然の恵みを目一杯利用して、その恩恵にあずかっているにもかかわらず、それをあだで返してきたのではないかなという気がするのです。特に海に対しては、人間の仕打ちが、非常に激しいなと思うのです。悪い事をしているなと。それは、やはり、海の中のことをよく知らないから、自分たちが汚しているという実感がわかないのだろうと思います。そういう実感を持たせるには、やはり直接の体験が必要だと思います。特に、将来の担い手である子供たちに、今残されている景観が愛媛の素晴らしい宝物だということを伝えるには、この直接体験が大切だと思います。
 私は、子供たちになんでも直接体験させます。理科の授業で、イモリやカエルでもヘビでも、ひどいやり方ですが、泣こうがわめこうが手を押さえて、絶対に触らせます。そういう体験がいるのじゃないかなと思います。
 というわけで、ぜひ皆さんも、また宣伝になりますが、海の中も体験していただきたいと思います。頭の中の理解だけではなくて、まず直接に見て、自分の気持ちとか、目や耳・鼻・皮膚の感覚を通して、まずは本物に触れる。そこから何かが出て来るのではないかと思います。以上です。

岡崎
 まだ少し時間を余しておりますが、よろしいですか。では、次に岡山さん、お願いします。

岡山
 先程、時間がなくて十分にお話できなかった「地元を見直す」ということについて、自然観察の観点から、少しお話したらと思います。
 石鎚山など有名な場所で、自然と触れ合うのもいいのですが、例えば、自分の庭に生えている草や野良生えで生えてきた木とか、そういったものの名前から調べてみよう、という取り組みも大事だと思います。名前を調べて分かれば、そこで友達になれるし、次へのステップとして、どんな大きい木になるのか、それとも低い木になるのか、あるいはそのまま変わらないのかとか、そういうつながりが持てると思います。まず自分の庭から自然を観察してみようとか、夜、明かりに来る虫などを見てみようとか、名前だけではなくて、生活全体を見てみようとか。こういう方法で、身近なところから自然を認識することができるかと思います。
 こういうことから、皆さんそれぞれが、御自分の住んでいる所に関心を持っていただき、それが集まって範囲が広がることによって、市町村などのまちづくりにもつながっていくのではないか。まちづくりを進める上での一つのキーワードが、「地域の自然の見直し」ではないかなという気がしております。
 自然学という言葉があります。自然学という、自然観察をすることも、愛媛学のうちの一つに含まれると思います。そして、自然と一体化するには、先程の少林さんの御意見と同じですが、直接の体験が必要です。実際に土を自分の手で掘ったり、かいたり、そして腐葉土(ふようど)と言って落ち葉が少しずつたまってできた土のうわっつらを、ちょっとなめてみるとか、匂(にお)いをかいだり、五感を使ったりするとか、そういったことが気楽にできないと、一体感というのは、まず得にくいと思います。素手で落ち葉をかき集め、それを布団がわりにして寝てみるとか、そういったものから始めれば、自然の方から自分たちに近づいて来るような気がします。一体感とはそういった感じかなあという気もしております。
 まとめますと、自然観察というのは、自分の庭から始められるのではないかなと思います。小さなところから始めて、それを広げていき、自然の偉大さというか、自然への畏敬(いけい)の念というか、自然からどんどん教えてもらうことが大切なのではないかなと考えます。「イネのことはイネに聞け。」とか、「サンショウウオのことはサンショウウオに聞け。」とか、今までとは違って少し謙虚な形で、私も自然と付き合いをしていかなければならないかなと思います。以上です。

岡崎
 ありがとうございました。それぞれのお話をお聞きしておりますと、私の活動と非常に共通しているなと思いました。私は、町並みを中心に、各地域のいろいろな宝物探しをしています。これを私は「町並みウォッチング」と呼んでおります。この「ウォッチング」とは日本語で言うと「みる」ですが、この「みる」にもいろいろあると私は思います。
 まず「見る」という見方。これは、「ただ目に入る」という程度の見方です。「知っているようで、実はよく知らない。」というのが、これに当たるでしょうか。今日、御発表いただいた皆さんのテーマ、焼畑や惣川の地域の宝、あるいは西海の海中公園が、今、どう汚れていっているのか。それから、山岳の自然景観が、心ない者によって汚されているということ。こういうことは、おそらく「見る」では、そこまで分かってこないのではないでしょうか。それを、時間をかけてじっと「視る」、注視する、凝視すると、少し分かってくる。それで次に、問題点の解決はどうなのだろうというところまで考えてみようとすると、これが「観る」という段階。もっと奥にあるものを見ようとする姿勢ですね。地域観察と言ってもいいと思うのですが、こういうことを、4名の方がお話をされたような気がします。町並みウォッチングで、あちこちを見て回っておりますと、こういう見方の段階、3段活用と言いますか、みればみるほど、いろいろなことが分かってくる、というのが私の実感です。と言いましても、私は愛媛に住んでいるものですから、もうちょっとグローバルな広い視点で、環境民俗学のお立場から見ておられる鳥越先生に御講評をいただきながら、まとめていただければと思います。

鳥越
 4人の方々の御報告から、ヒントを得たと言いますか、こうなのかなと感じましたのは、私どもは、「自然」ということをいろいろと考えた時、「自然保護」ということで、どうも守りの姿勢に入ってしまっているのではないか、ということです。もちろん守ることは、すごく大切なことだし、それは忘れてはいけないことなのですが、今、21世紀に向かおうとするこの時に、守りの姿勢を出しすぎなのではないかと思うのです。
 『成熟社会』という大変有名な本を書かれたガボールというアメリカ人が、すごくいい言葉を言っていました。それは、日本もそうですが、アメリカという産業化された先進国は成熟社会に入っている。その成熟社会とはどういう社会かと言うと、「経済的発展をあきらめる社会だが、生活の質の発展はあきらめない社会」だと。どういうことかと言うと、量的な発展はあきらめよう。それをこのまま追い求めていけば、おかしなことになってしまう。しかし私たちは、これから21世紀に向かって、生活の質の発展はあきらめてはだめだと言うのですね。やはり一個一個の人間が、どのようにしたら、生活の質を発展させることができるのかということを考える必要があるのではないでしょうか。
 今日発表された4人の方々が、それぞれの立場で言われたことは、実は生活の質なんですよね。山なり、海なり、どこであれ、そこをもう一度見直すことが、私たち一個一個の人間の、生活の内実と言いますか、質の発展につながっていくのだ。この考え方は、実はしばしばポストモダンと言われているのですが、これからは、こういう生活の質論になっていくだろうという気がするのです。今日発表された方は、景観の側から、本当にそれを主張されたなと思うのです。大変多くのことを教わりました。ありがとうございました。

岡崎
 ありがとうございました。非常に、有意義なお話をお聞きできたかと思います。先生方のお話から、地域の景観から学ぶことのおもしろさが分かり、これからは今までとは違った目で、「見る」、「視る」、「観る」の3段活用で、私たちのふるさと愛媛を見詰られるのではないかと思います。今日は本当に参会の皆様、ありがとうございました。