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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇塩作りの島


 塩作りは、古代においてはほとんどの海岸や島で行われていました。そこで、そうした島について、わたしがおもしろいなと思うことをお話しします。
 先ほどお話ししました屋代島、平城京へたくさんの塩を送っている島ですが、ここは瀬戸内海において面積が3番目に大きい島にもかかわらず、古墳は小さなものがわずかにある程度で、まして前方後円墳はありません。これに対して、屋代島の少し西に平生(ひらお)(山口県柳井市)という所があるのですが、ここは、江戸時代に新田開発で海峡を埋め立てるまでは島で、もちろんここからも製塩土器が出ています。そして、このかつての小さな島には、白鳥(しらとり)古墳(墳長123m)という、山口県と広島県とでの最大の前方後円墳があり、そのほかにも大きな前方後円墳があります。そして、おもしろいのは、奈良時代のころになりますと平生から都へ物資を送る場合は、「調(ちょう)」としてではなくて「贄(にえ)」として出していることです。では、調と贄とではどういう違いがあるのか。調の場合には、どこそこに住んでいるだれだれが、この産物を税として都へ送ったのかが記されている。すなわち、負担者の住所と名前までが政府に把握されます。ところが贄の場合は、その地域が一括して出しています。例えば、鳴門海峡のように「牟屋(むや)の海」という単位で、1年に1回政府に贄としてワカメを持って行けばいい。つまり、贄を出している地域においては、個人個人が政府によって把握されているわけではないのです。そして、贄を出している地域の古墳は、その地域が狭くても概して大きいものが多い。例えば、小豆島は調を出している地域なので、瀬戸内海の中でも面積が2番目に大きい島にもかかわらず、ここ伯方島にある程度の古墳すらもありません。したがって、政府に個人単位まで把握されている地域は、地元の経済力はそれほどでもなかったのかなとも思われます。こうした視点で芸予諸島をもう一度見直すと、いろいろなことが分かってくるのではないかと思います。
 以上、お話ししてきましたように、日本の歴史と塩とのかかわりには興味が尽きませんが、わたしの最初の話はこのくらいで終えさせていただいたらと思います。