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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇信仰に伴う製塩


 ここで、わたしも一つ追加をしておきたいと思います。ときどき、海から遠い所、例えば、飛鳥(あすか)(奈良県明日香村)とか長岡京跡(京都府)などから製塩土器が出るのです。どういうことかなあと思うのですね。製塩土器は、塩を作る時には必要ですが、どうも作った塩を運搬する時にも、この土器に入れて運ぶことがあったらしい。どういうことかと言いますと、京都の錦市場(にしきいちば)(京都市中京区錦小路通)の横に錦(にしき)天神があります。そして、その境内には塩釜神社という小さな神社が祀(まつ)ってある。この神社の由来を申しますと、平安時代に源 融(みなもとのとおる)という人物がいまして、彼が自分の屋敷の中に塩を作るかまどを設けた。そして、現在の大阪湾から樽(たる)に塩水を詰めて運び、自分の屋敷で塩作りをしたという有名な話が『今昔物語集』に載っています。この屋敷の跡だというので、錦天神は塩釜神社を祀っておられるのです。
 この話からも分かるように、費用がかかっても塩水さえ運ぶことができれば、海岸から離れた場所でも製塩はできます。だから、製塩土器は、塩を運ぶ入れ物として使用されたり、あるいは、海から遠く離れた場所で塩を作る際に用いられたこともあったのではないか。特に、重要な神様を祀る時に使う塩は、本来はその神様を祀る場所に近い所で作らないといけなかったのではないかとも思います。そしてこれと同様に、神様を祀る際のまじない用に鉄の道具を作る場合には、その場で鍛冶(かじ)に作らせないといけなかったのではないか。例えば、能登半島の付け根の羽咋(はくい)(石川県羽咋市)には、寺家(じげ)遺跡という祭祀遺跡があるのですが、そこからは、小さな鍛冶の跡とか、塩を作った炉の跡とかが一杯出てきます。そして、塩を作り終えたら、あるいは鍛冶の作業が終わったら、それらは赤土で埋められています。だから、瀬戸内海でも非常に潮流の複雑な場所、すなわち、ここには海の神様を祀っておかないと航海が心配だというような所では、生産が目的ではなくても、ひょっとしたら製塩を行っていたかも分かりませんね。何か、神様というのは案外勝手なもので、遠いところから塩を運んできてそれをお供えすることについては、普段はそれでもいいけれど、重要な頼み事のある時には目の前で作れと言う。どうもそういう気配も最近見えてきています。こういうことで、製塩といえばすぐに生産活動と結び付けがちですが、一概にそうとも言えない。信仰に伴うものも若干あるのではないかというのが、最近のわたしの考えです。

長井
 以上で、前半の対談講演を終わりたいと思います。後半では、伯方の塩の歴史を振り返るとともに、いろいろな視点から伯方の塩の魅力について研究しておられる方々の発表、いわゆる地域に密着した研究発表を中心に進めていきたいと思います。
 御清聴をどうもありがとうございました。