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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇製塩に関する古記録

 まず、塩に関する文献ですが、わが国で塩に関する最も古い歴史書といえば、『古事記』と『日本書紀』です。その『日本書紀』の応仁天皇の38年の条、これはだいたい5世紀の初頭に相当する記録ですが、その中に、官船の古船材を薪(まき)として塩を焼き諸国に送った、ということが書かれております。5世紀の初めといえば古墳時代でありまして、当然、土器製塩が行われていた時代のことです。
 また、平安時代初期の様子を記録した歴史書である『日本後紀(にほんこうき)』の延暦18年、これは西暦に直すと799年に当たりますが、その時の記録を見ますと、勢力のある豪族たちが、児島(岡山県)の塩百姓をいたぶって税金をしこたま取り上げている。そんなことは、けしからん。させてはならんと、禁止令が出ております。ここに塩百姓という言葉が初めて見え、そして最後の記録にもなるわけです。すでに奈良時代から、揚浜式塩田での製塩が盛んに行われていたことは、その遺跡の出土から明らかになっているのですが、揚浜式塩田が記録として出てくるのは、この記述が初めてであろうと思います。
 それから、京都にある寺の一つの東寺(とうじ)に伝来する奈良時代から平安時代にかけての文書群は「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」と呼ばれていますが、この史料の中に、平安時代の終わりころの弓削(ゆげ)島(越智(おち)郡弓削(ゆげ)町)の荘園(しょうえん)に関する記録がたくさん残っております。肝心の弓削島にはそうした記録は全く残っておりません。この記録を見ますと、当時の塩のことが非常によく分かる。そして、そこに頻繁に出てくるのが、カントリという言葉なのです。先ほども言いましたとおり、塩百姓という言葉はすでに使われなくなっております。
 この東寺百合文書を見ますと、塩に関するおもしろい記録がいろいろと残されております。例えば、小山承誉という人物が登場します。彼は、大島(おおしま)(越智郡吉海(よしうみ)町、宮窪(みやくぼ)町)の大山村のカントリの親玉だと思うのですが、鎌倉時代末期に弓削島の荘園の代官として乗り込んできまして、弓削島のカントリたちをいたぶり、塩やその他の年貢を搾り取ってしまいます。またおもしろいのは、弓削島の荘園にはカントリが20人ほどいて塩作りに従事していたのですが、その者たちが交代で、領家(りょうけ)、つまり荘園の持ち主である東寺へ塩を送っていたようです。ある時、他の年貢と一緒に36俵の塩を送りました。すると、そのうちの6俵を運送成功料としてカントリがもらっている。6俵分は、お前が自由に好きにしてよろしいということです。36俵を送って6俵ももらう。いいもうけだなあと思うのですが、やはり、当時の運送というものは、それだけ危険が多かったのではないかと思います。
 さて、安芸(あき)国、現在の広島県西部の廿日市に極楽寺という寺があるのですが、この寺の古文書の中に、岩城(いわぎ)島(越智郡岩城(いわぎ)村)や生名(いきな)島(越智郡生名(いきな)村)にあった浜の名前などを書いた明細帳が残っております。この記録は応永27年(1420年)ころのものですが、これを見ますと、その当時、岩城島には「西の浜」とか、「宝蔵寺前(ほうぞうじまえ)」などの揚浜式塩田が12、3あったようです。では、当時の伯方島にはどんな塩田があったかというと、記録がないので分かりません。非常に残念です。
 続きまして、『兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)』という古文書を例にお話しします。兵庫とは現在の神戸のことですが、神戸には南北朝時代以来、北関と南関という二つの関所があり、そこには毎年たくさんの船が出入りしておりました。その関税の徴収台帳の文安2年(1445年)の記録を見ますと、弓削島の船が20数隻、そして伯方島の船が4隻、塩を積んで北関に入港しております。その他としては岩城島、さらに瀬戸田・因島・竹原・忠海・三原(以上、広島県)などの船が塩を積んで、盛んに北関へ入っています。芸予諸島周辺で作られた塩は、「備後塩」という商品名で送られていました。
 わたしは、戦国時代の塩の記録を見たことがありませんので、よくは分からないのですが、揚浜式塩田はその後もずっと続けられたようです。そして、江戸時代になると次第に入浜式塩田に切り替わっていきます。その中でも最も早く揚浜式塩田から入浜式塩田に切り替わったのは竹原塩田で、江戸時代前期の慶安3年(1650年)のことであったと言われます。
 伯方島でも、揚浜式塩田は江戸時代中期ころまで続きます。そして、その製造法は優秀だったらしい。児島の方まで技術指導に出掛けたという記録が残っております。そして、伯方島では、文化12年(1815年)ころに瀬戸浜(せとはま)の塩田が入浜式塩田に切り替わってしまい、その後、北浦(きたうら)の塩田は天保年間(1830~1844年)のころに、古江(ふるえ)の塩田が江戸時代末の万延元年(1860年)に入浜式塩田に切り替わります。