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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇ふるさと探訪への思い

 また、わたしが尋常小学校生のころ、わたしが住んでいた地区には「お大師講」があり、わたしの家も講員でした。そして講がお世話をして、毎年3月の学校が休みの時期に、砥部四国の巡拝を3世代約30人が二日間で行っておりました。初日は、川登(かわのぼり)より岩谷(いわや)・大南(おおみなみ)と巡り、夜は大南戎(おおみなみえびす)の宿屋に泊まり、銭湯にも行き、夕食後は砥部座で映画も見ました。二日目は、千足(せんぞく)・原町(はらまち)・川井(かわい)・北川毛(きたかわげ)・五本松(ごほんまつ)・大谷(おおたに)と巡り、そして出発地の川登に戻り、二日間の巡拝が無事に終了できた喜びを語り合い、疲れを忘れました。
 ところでわたしは、小学校3年生の6月に、病気で休学することになりました。その時、わたしの祖母がわたしを砥部四国の巡拝に連れて行き、病気が治るようにお願いしてくれました。その後、医者の薬が効いたのか、あるいは「お大師様(弘法大師空海のこと)」のお陰かは定かではありませんが、3か月ほどで全快し、夏休み明けより再び小学校に通うことができました。この体験も、わたしがふるさと探訪に毎年参加する理由の一つです。
 その後、昭和14年(1939年)6月に軍に入隊するまでの9年間、わたしは砥部四国の巡拝に参加しました。そして、太平洋戦争が次第に厳しさを増すようになった昭和18年ころに、砥部四国の巡拝は中止されたそうです。
 戦後久しく砥部四国は忘れられていましたが、町教育委員会が調査を行い、昭和45年(1970年)ころ、白潟守雄さん(故人)や田中金一さん(故人)たちを先達とし、町中央公民館の事業として、ふるさと探訪の名称で復活しました。その時は、わたしは仕事が忙しくて事業への参加はできませんでしたが、平成3年からできる限り参加をさせていただいております。
 毎年、ふるさと探訪に参加するたびに、子供のころの思い出が次から次へと浮かんできます。川井の谷の札所は遠かったとか、岩谷口の八(はち)か所畝(しょうね)はしんどかった(疲れて苦しかった)、あるいは、同年代の仲間5、6人で、だれが一番最初に88の札所を全部お参りし終えるかを競争したことなど、その当時に戻ったような気持ちになり、参加するごとに若返る思いです。
 わたしはいつまでも元気でいて先達を務め、現代人が見失っている何かを参加者の皆さんに気付いていただくため、また、わたし自身のライフワークとして、88体の石仏たちと今後も付き合い続けていくつもりです。
 最後に、ふるさと探訪のお世話をいただく町中央公民館長さんをはじめ、職員の皆様に感謝のお礼を申し上げるとともに、これからもこの事業を続けていただきますようお願い申し上げまして、わたしの発表を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。