データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇海からの視点

武智
 それでは、石原先生を囲みまして、若干、先生が言い残されたことなどにつきまして、お話をうかがいたいと思います。
 まず、最初にわたしの方からお聞きしたいのですが、最近、わたしは、岬や半島での人々のくらしに大変興味を持っております。岬には、必ずと言っていいほど神が祀(まつ)られております。それはどういう神かと言いますと、日本神話のなかで、天孫のニニギノミコトが日向(ひゅうが)(現宮崎県)の高千穂(たかちほ)に降りてくる、いわゆる天孫降臨のときに、先導役を務めたサルタヒコです。神楽(かぐら)が舞われるときに、必ず一番最初に、鼻の長い赤面をかぶって登場するのがサルタヒコです。それから、岬に神社が無い所では、多くの場合お寺があります。海のはるかかなたの西方に、補陀落(ふだらく)山という浄土があるということで、昔はお坊さんが船出をして、その浄土を目指すということがありました。岬や半島へ行きますと、必ず何か新しい発見があり、わたしはとても胸がときめく思いをしております。
 今年(平成11年)の9月に、わたしは、和歌山県の日ノ御埼(ひのみさき)に参りました。その岬の灯台に降りていく小道のわきに、非常に小さいのですけれども、高浜虚子の句碑が建っていました。そしてその句碑には、「妻、長女、三女、それぞれ鳴く千鳥」という句が刻まれておりました。なぜ、高浜虚子が、ここでこのような句を詠んでいるのかと思って聞いてみますと、ある時期、日ノ御埼の灯台には、灯台守とその家族が住んでいた。そして、この灯台は非常に人里離れた所にあったため、物資の運搬が困難で、その結果、妻と子供たちが餓死してしまった。たまたま、この灯台守が高浜虚子の俳句の弟子だったので、この出来事を知った高浜虚子が、灯台守のつらさと餓死をした3人を哀れんで、「妻、長女、三女、それぞれ鳴く千鳥」という句を詠んだということです。わたしは、この句にまつわるこうした事実を知って、大変に胸打たれる思いでした。
 この出来事の数年後、妻と子を亡くした灯台守は転勤になりました。この灯台守は高浜虚子の弟子ですから、当然、その人も俳句を詠みます。彼が詠んだ句を刻んだ句碑が、先はどの高浜虚子の句碑よりももう少し離れた場所にありました。そこには、高浜虚子の句を受けて、「妻、長女、三女の千鳥、飛んでこよ」と刻まれていました。わたしは、ここから離れる。おまえたち、飛んでわたしの下へ来てくれという心情を実にうまく詠んでおりまして、わたしは大変感動をいたしました。
 今、お話しいたしましたように、岬や半島といった海に臨む場所にはさまざまな発見や感動があると思うのですが、そこで石原先生には、海に視点を置いて城辺町をとらえた場合に、何かお気付きになられたことがありましたら、お話をいただきたいと思います。よろしくお願いします。

石原
 先はども申し上げましたとおり、わずか1日程度ですが城辺町内を歩きまして、幾つかのことが分かり、また、幾つか分からないことがあります。
 最初に、まず分からないことから申し上げますと、どなたにお聞きしても、城辺という所は遠いと言うのです。今は国道56号を使って、宇和島市まで自動車ならば1時間くらいで行ける。しかし、国道を利用するようになるずっと前の時代を考えますと、それは相当遠いところだったろう。それでは、その当時の人や物はどのように移動していたのか。さらに、カツオはどのような方法でどこへ持って行かれたのだろうか。おそらくそれは、船を利用した海上交通、海上輸送というものが、現在よりももっと大きな役割を果たしていたのではないかという気がいたします。こうしたことを、ぜひ地元の方々で興味を持って調べていただき、お教えいただけたらと思います。
 二つ目に興味がありましたことは、城辺町は近海のカツオの基地だとうかがって参りました。先ほど武智先生が映された絵図は、だいたい明治時代の始めのころの絵ですから、江戸時代もきっと同じ様子だったと思われます。そのころに、近海でカツオを釣るということは、朝早くから船の櫓を漕ぎ、行くことのできる距離まで進み、そこでカツオを釣って帰って来るわけです。ですから、そういう距離の所でしかカツオ漁はできなかったのです。そして、日本列島の太平洋岸には、そういう場所として有名な所がたくさんあります。わたしは、三重県もその一つだと思いますが、静岡県、高知県にもあります。もちろん城辺町もそうです。そしておそらく、鹿児島県の枕崎市にもあると思います。それで、昨日、深浦港へ行ってびっくりしたのですが、先ほど武智先生もおっしゃったように、地元のカツオ船の数は少なく、よその、例えば高知県のカツオ船などがたくさん寄港している。その結果、近海の水揚げとしては、城辺町は非常に量が多くなっています。これはどうしてだろうかと思うのです。
 これについては、先ほど武智先生が映された写真でほぼ分かったと思ったのですが、それは城辺町には餌があるからですね。カツオは生きた餌がなければ、一本釣りができません。最近では、巻き網船団が太平洋の真ん中まで行ってごっそりと捕ってくる方法もあります。しかし、そうしたカツオは冷凍されて、ほとんどが焼津(静岡県)と枕崎に揚がります。カツオ船の地元へは揚がりません。これがおもしろい。やはり、一つの地域がカツオで生き続けることのできる基本的な要素としての海が、ここ城辺にはあるのだということが、こうしたところからでも見えてくる気がいたしました。
 それから、もう一つ。これは少し難しい話なのですが、わたしは、日本の漁業が非常に活発になってくるのは、17世紀半ばころからだと思っています。要するに、天下分け目の関ヶ原の戦い(慶長5年〔1600年〕)を境に戦国の世が終わりを告げ、日本の国内が安定してきます。そうすると、米の増産に力が注がれるようになります。さらに、野菜や木綿も作る必要がある。つまり、たくさん農産物を作らなければいけなくなったのです。では、農産物を作るために最も大切なことは何でしょうか。その一つは、肥料です。たい肥や人糞(じんぷん)ではもう賄えないくらいに農業の生産活動が活発になり、そこで新しい肥料として、イワシを干した干鰯(ほしか)の需要が高まってきました。その結果、漁業、特にイワシなどを捕る漁業が盛んになってくるのです。そして、城辺町へ参りまして、いろいろな方にお話をうかがったら、やはりここは海があるから農業もあるのだとおっしゃる。この城辺にも、今お話ししたような時代の反映があったのだということが、お聞きしているうちに分かって参りました。
 こうしたことが、先ほど武智先生がおっしゃった、岬や半島などにお祀りものがたくさんあるということと、遠いところで結び付いているように思います。人間は、海に対してすごく感謝をします。そのかわり、海は時として人間に対して凶暴になります。台風が来るし、津波も来る。人間に対して恐ろしいものを持ち込んできます。そして、こうした災いを防ぐために、たくさんの神様や仏様が岬や半島に祀られているのではないか。あるいは、供養塔がたくさんあるという形につながっているのではないか、という気がいたします。

武智
 どうもありがとうございました。以上で対談講演を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。