データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇大正から戦後にかけて

 大正5年(1916年)には、城辺在住の山口夕花、依光好秋、岡添勉、柳垣新六、鎌田覚之の、いわゆる文学青年たちの呼び掛けで、短歌雑誌『橋の上』の刊行が開始されました。
 さらに、昭和6年(1931年)には、吉井勇が城辺町に来ています。歌人であり戯曲家で、後には日本芸術院会員にもなった人です。この人が、堀舎を拠点として町内のあちらこちらを回り、歌を詠みました。このことは、城辺町の文化の歴史にとって大事なことだと思います。それは、この吉井勇の来町が、城辺町内はもちろん南宇和郡内の文学青年たちに刺激を与えたからです。すなわち、二神伝蔵(二神永世の孫)、実千代、岡添勉、柳垣新六らが呼び掛けて、「短歌練成会」という勇ましい名前の会を結成し、堀舎で。または吟行(ぎんこう)(和歌や俳句を作るために、名所旧跡や郊外などに出掛けること)して、1日あるいは一晩に短歌を30首作るという活動を行っています。わたしなどは、一月に10首を作るのに四苦八苦していますが、当時の青年の文学への情熱を強く感じます。そしてこの練成会の活動は、昭和7年に『草の葉』という短歌雑誌を出すところまで活発になります。『草の葉』は、愛媛県で最も早く発行された短歌雑誌で、二神伝蔵が中心となり、御荘町の石野義一が編集の実務を担当し、南宇和郡はおろか全国に呼び掛けて掲載する歌を募りました。この『草の葉』に入っている城辺町関係者は、ざっと数えて30名余りにもおよび、その中の何人かは現在でもお元気で歌を作っておられます。
 『草の葉』は、昭和16年(1941年)12月に休刊しますが、二神節蔵(二神伝蔵の子)はこの流れを引き継いだ形で「南宇和郡短歌会」を結成し、『海風』の刊行をします。しかし、戦局が次第に激しくなるにつれて、活動は衰えていきました。
 終戦後、二神節蔵は短歌雑誌『石壺』の刊行を開始します。戦後の混乱期で物資が不足し、印刷が思うにまかせない状況の中でしたが、節蔵は独力で経営しました。彼を支えたのは、戦争のために日本の国土だけではなく、人の心までもが荒れ果ててしまった今こそ文学が必要だ、という思いでした。その後、二神節蔵は33歳で亡くなりました。