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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)入れ物が桶しかなかった時代

 ア 桶職人になることを決心
   
 「私はこの近所で生まれ、地元の小学校、中学校を卒業しました。昭和24年(1949年)、数えの17歳の時に本町追手(ほうまちおうて)にあった梶原桶店に弟子入りしましたが、1年間で弟子入り先の桶屋がやめてしまったので、六兵衛坂(ろくべえざか)の二宮桶店で2年間修業をして桶職人になりました。その後、職人として5年間仕事をしながら腕を磨き、昭和32年(1957年)にここ(宇和島市中央町)に桶屋を開きました(写真1-1-10参照)。桶屋になって今年(平成21年)で60年になります。
 当時は、この辺に桶屋以外に畳屋、襖(ふすま)屋などがあり、職人がたくさん住んでいて、学校を卒業すると職人になるために弟子入りする人もたくさんいました。身内に桶職人はいなかったのですが、小さいころから桶屋の仕事を見ていて、まだ入れ物というと桶しかなかった時代でしたので桶職人になることを決心しました。同じ中学校から同級生で3、4人は桶屋に弟子入りしました。最初に弟子入りした桶屋は大きかったので、同年代の弟子が3、4人、職人が4、5人いましたが、他の桶屋は職人と弟子が1人ずつぐらいだったと思います。」

 イ 弟子時代

 「弟子の時代は朝7時半ころから夕方6時ころまで働いていました。最初は、仕事と呼べるようなものでなく、職人さんの手伝いをします。それから、竹釘(くぎ)作り、クレ(短冊形に割った木片で桶の側板になるもの、写真1-1-11参照)作り、クレ削りとだんだんと仕事を覚えていきました。休みは1日と15日でした。昔は職人の休みは毎月1日と15日と決まっていたのです。後はお盆とお正月が休みでした。給料は、1か月に700円もらっていました。会社勤めの人の給料が2,000円ぐらいであったと思います。年季は弟子入りする時に何年間修業するかを決めます。だいたい3年間ぐらい修業をして、その後は自分で店を持つか、職人でやるかを決めます。お礼奉公をする人もいましたが、たいていは弟子の期間が終わると店を出て他の店で職人として働くか、独立して店を持つかでした。私らより前の時代には、お礼奉公をする人が多かったようです。
 私が弟子入りした昭和24年には、宇和島のこの近辺にも桶屋が14、15軒ありました。当時は入れ物というと桶以外のものがなかったため、作った物は何でも売れました。桶以外でもまな板、洗濯板、炭入れ、ちり取りなど作ったものが何でも売れていたのです。店を出している人以外にも、竹を道端で割ってねじってタガ(桶の周囲にはめる竹や金属で作った輪)を作り、天秤(てんびん)棒で担いで農村を回って商売をする人もいました。どこの家でもたくさんの桶を使っていたので、ゆるんだタガを交換したり、タガを締めたりする仕事がたくさんあったのです。」

写真1-1-10 坂本桶店の店頭

写真1-1-10 坂本桶店の店頭

仮組みの終わった桶を並べて乾燥させている。宇和島市中央町。平成21年5月撮影

写真1-1-11 クレ

写真1-1-11 クレ

宇和島市中央町。平成21年5月撮影