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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)島の産業とともに

 ア 小学校6年生から船に乗る

 「私は昭和13年(1938年)に朝鮮で生まれました。父は中島出身だったのですが、朝鮮に渡り船大工をしていました。現在の韓国のホコウ(浦項、現在のポハン)にいました。父は船を造って儲(もう)けたお金で土地を買ってリンゴ園も経営していましたが、昭和20年終戦になり、私が小学校1年生の時中島へ帰ってきました。中島へ帰ってから父は自分で船を造って、今の渡海船のようなことをはじめました。当時は、終戦後の厳しい時代で、父と母は朝早くから夜遅くまで生活のために必死で働いていました。私はそれを見て育ったので、小学校6年生ころから父の手伝いをするようになりました。私は6人兄弟の長男で、母は下の子の面倒を見ることで忙しかったので、中学生になるとほとんど毎日、父の手伝いをしていました。父が船長で舵(かじ)をとり、私が機関長としてエンジンを見るという役割でした。最初は見よう見まねでやっていましたが、だんだんと慣れてきました。
 当時は船長と機関長の2人いないと船を動かすことができない時代でした。エンジンも焼玉(やきだま)エンジン(燃焼室にある焼玉と呼ばれる鋳物の玉を加熱して、燃料に着火させるエンジンのこと。『ポンポンポン…』という排気音から『ポンポン船』の愛称で親しまれる。)と言って今のエンジンとは違うのです。焼玉をバーナーで焼いてからでないとエンジンをかけることができないのです。今のようにスイッチ1つでエンジンをかけて後は放っておいてもよいものではなく、エンジンを見ていないといつ急回転するかわからなかったのです。燃料は重油ですが、終戦直後だったので質の悪いものでした。不純物が多くて油こしでゴミを取り除かないと使えなかったのです。冬になると凍って油が流れなくなっていました。そのため一度暖めてから使っていました。」 

 イ 集落を船で回って三津浜へ 

 「当時中島には道らしい道がなかったので、荷物の運搬は全部船で行っていました。各港を船で回って荷物を集めます。朝5時ころに宇和間を出発して、5か所ぐらいの港を回って荷物を集めていきます。5時半ころに畑里(はたり)へ行き、それから饒(にょう)、吉木(よしき)に着けて6時半ころ宇和間へ帰ります。それから松山(三津浜港)へ行きます。当時は松山まで1時間10分ぐらいで行っていたので、8時ころに着きました。三津浜港に着くと荷物を降ろし、中島へ運ぶ荷物を積んで12時から13時ころに港を出ていました。中島へ帰るのは14時ころになります。帰るとそれぞれの港へ荷物を運んで行きます。各港に行くと、だいたい帰る時間は決まっているので、店の人がリヤカーを細長くしたような大八車(長さが3~4m、幅が60~70cm)を引いて取りに来ていました。1日の仕事が終わるのは17時ころでした。それよりも遅くなることもありましたが、1日のうち朝5時から夕方の5時まで12時間は船に乗っていました。」 

 ウ 酪農と渡海船

 「昭和20年代は主に牛乳を松山へ運んでいました。中島では昭和30年代以降にミカン栽培が盛んになるまでは、乳牛の飼育が盛んでした。どこの農家にも牛小屋があり、牛を飼っていました。小屋の中は麦わらを敷きつめて、牛が糞をすると麦わらと混ぜてそれを堆肥(たいひ)にしていました。ショウガの栽培が盛んな時だったので、ショウガ畑の肥やしにしていました。牛乳は集落ごとに浜の近くに集荷するところがあり、そこへ行って船に積みます。牛乳が20ℓぐらい入ったアルミ容器がたくさん置いてあるので、それを2本ずつ天秤(てんびん)棒で担いで船に積むのです。重さは容器の重さもあるので50~60kgになっていたと思います。そうやって各港を回って全部で50~60本積み、それを松山へ運ぶのです。まだ中島の各港が整備される前だったので、潮が引くと船を岸壁まで着けられず、浜を歩いて荷物を船に積んでいました。船から浜へ歩み板(長さ3、4m、幅30cm、厚さ7、8cmの板)をかけて降り、そこから岸壁まで浜を7、8m歩いて行きます。浜と岸壁の間は3段ぐらいの階段になっているので、そこを通って荷物を船に積んだり、揚げたりするのは大変な仕事でした。
 三津浜港のすぐ近くに、明治牛乳の工場があったので、そこへ持っていきました。牛乳を運んでいたのは昭和35年ころまでで、それ以降はミカンが好景気になり、酪農をする人はいなくなりました。牛乳を運んだ帰りには、醤油、味噌、米、お酒など生活物資を運んで帰ります。中島の商店から注文をうけた松山の商店が、港まで持って来ているので、それを積んで帰るというやり方でした。       
 牛乳以外では、ショウガやタマネギをよく運びました。ショウガやタマネギは、ミカンが好況になる以前は中島の特産物だったのです。どこの集落でも海岸にショウガやタマネギを保存する納屋があり、その前に船を着けて積み込んでいました。タマネギは6月の収穫時期には何百ケースも運んでいました。タマネギは今でも運んでいますが、ショウガはほとんどなくなりました。
 松山から中島へは建築資材や土木資材も運びました。建築資材は専用の大きな運搬船があったのですが、頼まれて何回か運んだことがあります。昭和25~30年ころには木材を運んだこともあります。中島には立派な松の木があったので、家を建てる時にそれを切り出して松山の製材所へ持って行き、加工してもらっていたのです。三津の瀬村製材所で加工をしてもらい、それを中島へ運んで帰ったことがあります。」

 エ ミカンと渡海船

 「昭和30年代に入ってから中島ではミカンが好況になりました。中島では宇和間(うわま)、畑里(はたり)、饒(にょう)と集落ごとに出荷組合を作っていました。それぞれの集落ごとに選果場を持って共同で選果をして、共同出荷をしていました。良い物は阪神方面に、ミカン船という渡海船より大きな専用の船で運んでいました。良い物のほとんどがミカン船で阪神方面へ出荷されていたのですが、松山へ出荷するものもかなりあり、渡海船で運んでいました。各集落を回って岸壁に船を着け、歩み板をかけ、その上を滑らせてミカン箱を積んでいきます。最初のころはダンボールなどなく、木箱だったので重くて大変でした。渡海船ごとに集める範囲が決まっていて、うちの船は畑里から宇和間でした。神浦(こうのうら)から長師(ながし)を担当する船もあります。粟井(あわい)から大浦(おおうら)を担当する船もあります。大浦は中島の中心で人口も多かったので4、5隻の渡海船が出ていました。本島以外にも睦月(むづき)、野忽那(のぐつな)、二神(ふたがみ)、怒和(ぬわ)とそれぞれから出ていました。畑里から宇和間を担当する船は2隻いたので『ミカン1箱をいくらで運ぶか。』という競争になっていました。」

 オ 1日に1,000箱のミカンを運ぶ

 「昭和39年(1964年)に結婚し、それからは家内と2人で船に乗るようになりました。私が船長で、家内が機関長です。そのころから昭和40年代にかけてが、ミカンの最盛期だったと思います。私たちの船でも、1日に15kg入のミカン箱を1,000個ぐらいは積んでいました。まだ人力で荷物を揚げ降ろししていた時代です。1日1,000個のミカン箱を積んでいたということは、15kgの箱を積む時と降ろす時と合せて2,000回上げたり下ろしたりするのですから、本当にきつかったです。家内と2人でやっていたのですが、女性には重労働だったと思います。いつも『やめたい、やめたい。』と言っていました。
 三津浜港に着くと、青果市場の人が取りに来ていました。当時は三津浜港に入っても、渡海船の数が多くて船を荷役場へ着けることができないこともありました。常時、10隻以上の渡海船が着いていたのです。今は、数が少ないので岸壁に船を横着けできますが、当時は船首を前にして縦に着けていました。港の周辺には青果市場や魚市場、米屋、食料品の卸屋など何でもありました。ミカンなどの柑橘(かんきつ)類を運ぶのは、11月から3月ごろまでです。ミカンだけでなく、野菜も松山へ持って行くと良い値段で売れていたので、ミカンが終わるとキュウリ、トマト、ナスビ、タマネギをたくさん運んでいました。特に6月はタマネギが多かったです。タマネギは本島よりも他の島で栽培が盛んで、怒和から来ていた渡海船は、いつも船一杯にタマネギを積んでいました。ミカンが良かったのは昭和40年代までで、50年代に入るとそんなに良くなかったと思います。50年代に入ると加工用のミカンの運搬が増えてきました。以前は加工用のミカンなどなくて、少々品質の悪いものでも売れていました。」