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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)渡海船の現状

 ア フェリーの影響

 「渡海船の数が減ったのは、中島の人口が減ったこともありますが、一番大きい原因はフェリーが就航するようになったことです。昭和33年(1958年)に町営フェリーが就航するようになってから、だんだんと荷物が減ってきました。建築資材など大きい荷物が減りました。荷物をトラックに積み、そのままフェリーに乗せて持ってくるので、私たちのような渡海船は用事がなくなります。渡海船だけでなく、資材を運ぶ船、ミカン船など専用船がなくなりました。同じころに島内の道路も整備されて車で荷物を運べるようになりました。最初は宇和間から畑里の港を1か所、1か所回っていましたが、昭和35、36年からは神浦と饒の2か所になりました。昭和58年(1983年)からは神浦だけになりました。道路も整備され、神浦に船を着けてトラックで荷物を配達するほうが船で回るより便利になったからです。神浦港も整備され、船から荷物を降ろす時に今までのように人力で降ろすのではなく、クレーンで吊り上げてそのまま車に載せられるようになりました。1年前(平成20年)からは大浦(おおうら)から出るようになりました。神浦港は荷物が少なくて商売にならないからです。」

 イ 4隻の天祐丸と栄徳丸

 「最初の天祐丸は、父が造ったものですが、10tぐらいしか積めませんでした。昭和30年ころまで乗っていました。それから次が第二天祐丸です。この船も父が造ったものです。昭和45年ころに第三天祐丸を造りました。これは私の代で造ったものです。三津浜港にある角田造船所で造りました。木造船の最後ころであったと思います。350万円ぐらいしました。40tぐらいの荷物は積むことができ、40kgのセメント袋を1,000個積んだこともあります。船の名前に天祐丸がつく渡海船は第三天祐丸で終わりです。この船は今も動いています。1年前までは息子が乗っていたのですが、今は野忽那島で渡海をしている**さんが乗っています。息子は大浦で営業していた栄徳丸という船を買って渡海をやっています(写真1-2-3参照)。平成元年に第五天祐丸を造りましたが、この船は渡海船ではありません。海上タクシーとして運航しています。海上タクシーは渡海船をしながらやっていました。平成に入って渡海船は土、日休むようになったのですが、まだ景気が良かったころで、土日になると旅行など遊びに行く人が多かったため、海上タクシーを始めたのです。団体旅行や釣りのお客さん、急用ができた人などが利用してくれています。第四天祐丸という船はありません。昔から船には四という数字は縁起が悪いので使わないのです。天祐丸から第三天祐丸までは木造船です。第五天祐丸はFRP(繊維強化プラスチック)船です。息子が乗っている栄徳丸は約20tの鉄鋼船です。渡海船はほとんどの船が20t未満だと思います。それを超えると免許や税金、検査が違ってくるからです。」

 ウ 親子3代で渡海船を継承

 「渡海船の仕事を息子と代わったのは平成8年(1996年)です。息子とは3年ぐらい一緒に渡海をしましたが、息子が『責任を持って自分でやる。』と言ったので、私は渡海をやめて海上タクシーの仕事だけするようになりました。今は、息子と息子の嫁が2人で渡海をやっています。」
 現在の渡海船の仕事について、息子さん夫婦に話を聞いた。
 「今、私たちは4時に家を出て大浦港に行きます。私は3時半に起きますが、家内は弁当を作るので2時半に起きています。大浦港で松山に運ぶ荷物を積み、5時半に港を出て6時半に三津浜港に入っています。市場のセリがあるので、それに間に合うように荷物を運ぶため朝が早いのです。三津浜港に着くとすぐに荷物を揚げます。岸壁に荷物を揚げておくと業者や市場と契約している運送屋が取りに来ます。荷揚げが終わると中島に運ぶ荷物を積みます。中島の農協やスーパー、個人商店と契約している業者や運送屋が荷物を持ってくるので、それを積み込みます。建築資材など大きな荷物を積む時は、船に付いているクレーンを使います(写真1-2-4参照)が、それ以外のモノは昔と同じで歩み板をかけて、荷物を滑らして積み込みます。その方が早いし荷物も痛まないのです。1日に20軒から30軒の業者や運送屋が荷物を持ってきます。荷積みが終わると9時半に三津浜港を出て10時半に大浦港へ着き、荷揚げをします。昔は岸壁に揚げておけば頼んだ商店などが取りにきていましたが、今はほとんどの荷物を車で配達しています。うちは中島本島全部の荷物を扱っているので、配達が終わるのが夕方の5時、6時になります。1日に12、13時間は働いています。
 中島から松山へ運ぶものは、野菜やミカンなどの農産物の他、プロパンガス、ビールやお酒の空き瓶などです。ミカンなど荷物の多いところは集荷もしています。松山から中島へ運ぶものは、お米、パン、卵、お菓子など食料品、お酒、ビール、ジュースなどの飲料品、スチールやパイプなどの建築資材、ミカンのダンボールや肥料、プロパンガスなど島の生活に必要なさまざまなものです(写真1-2-6参照)。今は島の農協やスーパーマーケット、商店と契約しています。もちろん個人の荷物も運びます。スーパーの荷物を運んでいるので、大売出しの前日には荷物が多くなります。今、中島本島で渡海をやっているのはうちの栄徳丸と**さんの天祐丸だけです。**さんの天祐丸ですが、父親が乗っていた天祐丸とは別の船です。たまたま名前が同じだけです。この2隻が大浦から1日おきに交代で出ています。中島全体でも、渡海船をしているのは本島で2軒、津和地(つわじ)に1軒、野忽那(のぐつな)に1軒、怒和(ぬわ)に1軒の合計5軒だけです。」
 渡海船の今後について、**さんは次のように話す。
 「この先さらに島の人口が減って高齢化が進んだ時にやっていけるのか心配しています。中島には今治の島のように橋がないので、人や荷物を運ぶためには船は必要です。渡海船は島の便利屋なので、島の人々の生活に必要なものです。島に1つはないと不便になると思います。現在、中島本島で2隻の渡海船がありますが、渡海をやっているもう一人は私より1つ年上の方です。後継者はいないと聞いているので、本島の渡海船はうちだけになるかもしれません。あまり儲(もう)けにもならないきつい仕事なのでやめようと思ったこともありますが、父親の代から島の人々の生活とともに歩んできた仕事なので、なかなかやめることができませんでした。息子たちも同じ気持ちで続けているのだと思います。」
 3人の話から渡海船は、島々の人たちの日常生活に密着にかかわるとともに島の産業と直結しており、地域をよりどころにして地域とともに歩んできたことを知ることができた。

写真1-2-3 三津浜港を出航する栄徳丸

写真1-2-3 三津浜港を出航する栄徳丸

松山市三津浜。平成21年10月撮影

写真1-2-4 クレーンを使った積み込み

写真1-2-4 クレーンを使った積み込み

松山市三津浜。平成21年10月撮影

写真1-2-6 中島へ運ばれるさまざまな荷物

写真1-2-6 中島へ運ばれるさまざまな荷物

松山市三津浜。平成21年10月撮影