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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)クジャクの羽根のように

 ア 昭和25年開店

 「店を始めたきっかけは、戦前から洋品店を経営していた家内のおばが、戦後に洋品店から傘部門を分離してクジャク屋を開店することになり、その経営を家内が任されるようになったからです。創業は昭和23年(1948年)ですが、開店したのは昭和25年(1950年)1月です。創業から開店までの間がありますが、開店の準備に時間がかかったのと昭和25年までは切符制(各世帯に人数に応じた切符をあらかじめ交付しておき、それと引き換えに物資を渡すものであり、戦時中に物資不足のため、ほとんどの生活必需品で施行された。)があったため、自由に傘を売ることができなかったからです。クジャク屋という店名は、傘を開いた時の様子が、クジャクが羽根を広げた姿に似ていることと、クジャクが羽根を広げたように商売が広がって繁盛するようにという願いを込めて付けました。
 私は昭和20年(1945年)3月に松山工業学校機械専修科(現在の愛媛県立松山工業高等学校)を卒業しました。戦局が厳しい時代であったので、在学中に実習用機械を北条(ほうじょう)へ移動させたりしました。卒業後は、そのまま助手として学校に残り、それ以来、工業高校機械科の教員として定年まで教壇に立ちました。まだ助手のころ、空襲で校舎が焼けてしまったので、戦後しばらくの間は北伊予小学校と松前(まさき)の東レ(東洋レーヨン)工場に分かれて授業をしていたことなど懐かしい思い出です。昭和28年(1953年)に家内と結婚をして、帰宅後や休日には店を手伝うようになりました。
 お店は朝8時に開けていました。店を閉めるのは夜9時から10時の間でした。開店当初は、元旦と秋祭りの1日だけがお休みで、それ以外は毎日開けていました。どこのお店もそうでした。昔はみんなよく働いていたと思います。昭和30年代になってからは、商店街で決めて週に1度は休むようになりました。
 雨傘と夏には日傘、冬にはショールを主に取り扱っていました。雨傘が良く売れる時期は、5月から6月の梅雨入り前や梅雨の時期と9月、10月の台風の時期でした。それ以外でも雨が降ると忙しかったです。日傘は、5月~8月にかけてです。11月~3月ころまではショールと男性用のマフラーがよく売れていました。傘はいつも置いていましたが、売り上げでいくとショールの売り上げが多かったのです。当時の女性は着物を着る人が多く、冬になると防寒用としてショールをかけていました。昭和30年代ころはビロードのショール、その次にカシミヤのものが出て売れていました。着物を着る女性が少なくなってからも娘さんが、正月や成人式、結婚式に着物を着ていたので、白い羽根のショールが売れていました。」

 イ 商売の最盛期

 「商売の最盛期は昭和30年代後半から40年代にかけてです。雨傘はそれまでの綿の傘からナイロンの傘に変わってきました。ナイロンの傘は昭和20年代後半からあったのですが、出始めのころは値段が高かったのであまり出ませんでした。それが30年代後半になると価格も安くなり、折りたたみ傘が普及してきたので売れ始めたのです。折り畳み傘は、もともとは傘の骨を製造していたアイデアル社が折り畳み傘の骨にスプリングを付けて簡単に開ける傘を発売したのです。当時、植木等さんの『何である。アイデアル。』というコマーシャルがテレビで盛んに流れたこともあって『アイデアル(折り畳み傘)を下さい。』というお客さんがたくさん来ました。小学生が使う傘も最初は綿製の赤と黒の傘でした。女の子が赤い傘、男の子が黒い傘を持っていました。昭和40年ころに雨の日の小学生の交通事故が多くなってから黄色い傘になりました。小学生の傘もたくさん売れていました。日傘も綿が主流で、高価なものは織物の生地を使っていました。今はナイロン製のものが多く出回っています。黒い日傘を差している人を見かけますが、もともと日傘の黒いものは葬儀用であったのです。
 昭和40年代後半が最も売り上げが良かったです。日曜日や祝日は昼ごはんを食べる時間がないほど忙しかったのです。当時は私たち以外に、姉と従業員が3人と私の母も手伝っていたのですが、それでもそんな状況でした。冬になるとショールがよく売れ、大晦日に店を閉めようとしてショーケースを見ると全て空になっていることもありました。昭和60年代になってからは呉服屋さんにもショールを置くようになったため、あまり出なくなりました。
 傘は大阪の問屋から仕入れました。大手の問屋が2社、後は小さな問屋が数社ありました。展示会などがあるとフェリーでよく大阪まで行きました。そのころは商品が毎週、問屋から入っており、30cmから40cmぐらいの四角い木箱が4つ、5つは届いていました。まだ、ダンボールが普及していない時代だったのです。木箱の釘を抜いて開けていたので手間がかかりました。開けると問屋さんがご苦労様ですというしるしに飴やガム、チョコレートを入れてくれていることもありました。開け終わった木箱は、ばらして風呂のたき物にしていました。ダンボールになったのは昭和40年ころからだと思います。昭和40年代には傘をたくさん売ると、メーカーや問屋さんが旅行に招待してくれていました。そんなことも商売をする励みになりました。」